うんでば

うんでば。落語にそんな演目はありません。
本当は泥棒噺の「締め込み」。でもこの噺のタイトル、「うんでば」だったらいいのにと思っている。

寄席でたまに聴く噺。
留守宅を物色中の泥棒。亭主八五郎が帰ってきたので慌てて隠れるが、その際に盗もうとした古着の包みを出しっぱなしにしてしまう。
八五郎は古着の包みを見て、女房が男を作って出ていくところだと思い込む。
そうとも知らず、呑気に帰ってきた女房おみつは、亭主に出ていけと言われるが、なんで言われるのかわからない。
男を作ったろうと八五郎に言われ、おみつは泣きながら結婚前のエピソードを語る。
八五郎が、出入先の行儀見習いのおみつに、出刃包丁を突きつけ、うんと言って嫁に来るか、いやと言って出刃か選べと迫られる。「さあ、『うん』か『でば』か、うんでばか」。

口でカミさんに適わない八五郎、鉄瓶の湯をひっくり返すと、この湯がぬか漬けの隣で潜んでいた泥棒の上に落ちてくる。慌てて出てくる泥棒。
出てきてしまっては仕方ない。夫婦喧嘩はすべて自分が原因だと白状する泥棒。
つまらないことで別れなくてよかったと、仲直りする夫婦。仲裁してくれた泥棒さんに感謝して、一杯やろうとなる。

いろいろ聴き比べてみた。先代文楽のものは、今でもほとんど通用する内容だ。
志ん朝のものは、「うんでば」ではなく「『うん』か『のみ』か」の「うんのみ」。出刃でなく大工の商売道具にしている。
実に感心したのが、古今亭右朝のもの。師の志ん朝と同じ年、先に亡くなった弟子である。この音源を聴いて、「締め込み」について書こうと、実は思ったのだ。
なにが素晴らしいか。おみつは、ぬかみそをちゃんと毎日かき混ぜる女房なのである。だから臭わない。
ほとんどの演出では、慌てて隠れた泥棒が、ぬかみその臭いに閉口し、「ここのおかみさんだらしないな」とごちるのである。
しかし、八五郎もおみつも、慌て者には違いないが、いきなり入ってきた泥棒のおかげでいったんは別れる羽目になる、まったくの被害者である。
被害者を、悪く演出したくないという発想が根底にあるのだろうと想像している。
「うんでば」のシーン、冷静に考えれば脅迫である。泥棒の被害者である八五郎を悪く書かないようにするなら、このシーンはよくない。だから右朝の「締め込み」には「うんでば」がない。代わりに入っているのが、八五郎が人力の車夫になって、初日から、「坂をぶら上がってしまって」大失敗するエピソード。

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「締め込み」の夫婦。ちょっとしたきっかけで、修復できないヒビが入ってしまうような関係だったら、いつ別れても仕方ない。
仕事の半端な亭主に、台所仕事のいい加減な女房の組み合わせで、さらによそに女を作り、男を作るのが本当なら、そうなる。
でも、泥棒が入るというのは決して「ちょっとしたこと」ではないのだ。波風立たないはずのところに波が立ってしまう、それを人情で収めるのが「締め込み」の世界観だと思うのだ。

橘家圓太郎師のものは、色っぽいおかみさんと、小心を隠した乱暴な亭主の組み合わせで実に味わい深い。状況描写が大変詳しい丁寧な仕事だ。
女房を悪く描写しないためだと思うが、いい女っぷりがやたら強調されている。だが、ぬかみそはやはり臭い。
「締め込み」は、犯罪状況からすると「刑事コロンボ」「古畑任三郎」と同じ倒叙もの、犯人が先にわかっている話だから、カミさんが男関係を疑われるいわれはない。しかし、無実でなければ成立しない噺において、一瞬「この女なら」と思いかねないではないか。
コロンボを持ってくるこたあないのですが。

亭主のほうも、演出によって大工としての腕のなさを強調されることがある。
志ん朝の演出では、女房と一緒になる前の失敗続きを女房に暴露されるシーンがあり、「自分の乗った足場を切ってしまったり」というところで場内爆笑なのだが、決して「今も下手だ」とは言っていない。むしろその努力ぶりをさりげなく女房が認めているという設定にしている。
現代の、別の古今亭の師匠のものでは、はっきりと「仕事もロクにできないんだから」と現在形で言い切ってしまうシーンがあった。これは興ざめ。
噺に没入している客の耳が覚めてしまうではないか。客は現実世界でカミさんに罵られているのだから。

女房はきちんと家事をして、亭主は腕のある大工。
この平和な設定を崩さずに笑いに変えているのが、昨日ご紹介した右朝のものなのだ。だから聴いていて気持ちがいい。
ぬかみその臭さはクスグリにはなる。だが、クスグリによって得られる笑いより、失うもののほうが大きいのではないか。
「人力車のぶら上がり」より、「うんでば」のほうがインパクトが強いのは確かだが。

鉄瓶がちんちん煮えたぎっているのだけは女房の仕事の汚点だが、これは泥棒が飛び出す伏線になるから仕方ない。まあ、ガスの付けっぱなしとはレベルが違うから。

落語は「業の肯定」だと言った故人がいる。
でも、「人間の業」が先にあるのではなくて、「温かく見守る視線」のほうが先にあるのではないか。
「泥棒にもちゃんと居場所がある」前に、「人を温かく見守る社会の視線」が先にあって、そこに泥棒が当然のように居場所を持っているのだと思う。「泥棒」を「与太郎」にしても同じこと。
だから「業の肯定」ではなく、むしろ「業も肯定」だと思う。
噺の演出を工夫するのは大事だが、そこで温かい視線を忘れたら台無しになってしまうと思うのだ。

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さらにいろいろ「締め込み」を聴いてみた。
続けて同じ噺を聴くというのは、学術研究的な興味とは別に、案外楽しい。先人も含めた、噺家さんの工夫の一端を追体験できるから。
また、聴いているうちに噺の骨格、ないがしろにしてはいけない部分が、3D映像のように浮かび上がってくる。

「締め込み」というタイトルはサゲから来ている。
ごちそうになった泥棒が寝てしまう。八五郎夫婦も寝ることにするが、不用心だから戸締りをしなければならない。しかし泥棒は中にいる。では外から芯張り棒をかましておけ。
もう帰るという泥棒を、亭主が恩に着て帰そうとせず、泥棒が出られないように外から締めこんでおけ、というのもある。
分類すると「逆さ落ち」というもの。サゲとしてはシャレが効いて悪くないものだが、噺の肝でもない。
泥棒が、「これを機会にちょいちょい寄せていただきます」、亭主「冗談言っちゃいけねえ」でも全然構わない。

「うんでば」はいちばんのウケどころで、サゲよりも数段重要。これを喋りたくてやっている噺家さんもいるに違いない。
タイトルが「うんでば」でもいいんじゃないかと思うのは、これが理由。
しかしながらこの場面、「人力車のぶら上がり」に替えてしまっても噺が壊れるわけではない。

最も大事な肝は、「平和な家庭に起きた突発的災難、人情で復旧すること」である。
泥棒さん、熱湯を浴びてやむを得ず出てくる羽目になったが、夫婦喧嘩を始終聴いていて、内心思うところはいろいろあったに違いない。だから、出てきてすぐに仲裁ができる。

演出に工夫をするとき、この優先順位を間違えると、嫌な噺になるのだ。
志ん生など、ぬかみそが臭いくだりを入れても、ご本人がぞろっぺえなイメージで売っていた人だから嫌な感じは起きない。だが、きちっとした芸風の人がこれを入れると、大変非難めいて聴こえてしまう。
亭主の、職人としての腕の巧拙もしかりで、「お前さん泊まり番なんかそんなにあるはずないじゃないか」とおかみさんが口にするだけでも嫌な感じになるから、気を付けなければならない。

ちなみに「締め込み」は、泥棒登場のシーンから始まる。だが、なんとなくこの前がありそうに思っていた。「出来心」の冒頭からこっちに来れそうなイメージがあるのだ。
古今亭志ん弥師匠のものがまさにこれだった。綺麗につながっている。
だが、下手にこのパターンを踏襲したらたぶん目も当てられない。泥棒の性格が、二つの噺でいささか違うから。
出来心の泥棒は主役で、与太郎ぽく、締め込みの泥棒は狂言回しで甚兵衛さんぽい。だから、与太郎ぽく飛ばし過ぎるとギャップが生まれる。
志ん弥師も、泥棒の間抜けさより、人の好さを強調して、後半で回収できるようにしている。おかみさんが湯に出ていくのを確かめて、安心して入ってくる半端な泥棒なのだ。
亭主をヨイショして、「風呂敷一枚であんな物語が作れるなんて劇作家みたいだ」と妙なほめ方をしているところにも性格が出ている。
劇作家は先人であるが、演出家は噺家本人。シナリオも立派だが、演出もさすがですね。

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「締め込み」をまだ聴いています。
メジャーな噺というわけではなく、そんなに音源の種類はないので同じものを聴くわけだが、聴くたび発見があってやめられない。
今度寄席で巡り合うのが楽しみである。

さらっと聴いていると、泥棒のキャラはただの厚かましい男にも感じる。
「自分のせいで夫婦喧嘩が起こったのにもかかわらず、恩着せがましく仲裁を買って出たことにしている」
という。
「花色木綿」のように自ら飛び出るわけではなく、お湯が頭から降ってくるというハプニングが原因だから、どうしてもそう思ってしまう。
だがよく聴くと、やはり泥棒は仲裁の役割を担っているのだ。

興奮していた亭主は、泥棒の正体と喧嘩の原因、それから泥棒が出てきた原因をよく理解したうえで、それでも礼を言っている。人のものを盗むのはいけないよと意見をしているところから、冷静さを取り戻しているのがわかる。
亭主は、女房を疑った自分の気持ちを深く恥じている。自分に沸いた気持ちは、さすがに泥棒が招いたものではなく、それについては泥棒を非難しない。
きちんと喧嘩が収まるためには、亭主と女房が徹底的に対立している構図はいけない。口のよくまわるおかみさんが過去のなれそめとハプニングを語る際、亭主への愛情がにじみ出ている必要がある。
すでにその愛情表現が心に沁みてきている亭主ではあるが、それを再度理解するためには、泥棒の口からエピソードを語ってもらう必要があるのである。
文学的だねえ。

亭主八五郎はダメ人間であってはいけない。日ごろ喧嘩ばかりしているにしても、見どころがある人間でないといけない。
志ん弥師匠になると、人のいい泥棒に八五郎の男ぶりを褒めさせたりしている。
八五郎の妄想ぶりを強調するのも(聴いたことはないが、ありそうだ)、職人としての腕のなさを強調するのも、それでウケたとしても後味はよくないものになる。

あと、大事な点。
亭主は、泥棒が隠れている家にひとり帰ってきて、自分の内心をすべて声に出しているわけではない。「あの野郎、前から様子が変だと思った」というあたりは、独白と解すべきだろう。
客は全部聴いているが、泥棒が聴いているのは、あくまでも女房おみつが帰ってきてからだ。
泥棒が状況を把握するのは、亭主が女房に語りだして以降だ。だから、亭主が興奮のあまり支離滅裂になってしまうと、泥棒にも状況が伝わらないことになる。

右朝師の「締め込み」はまた、素敵な江戸フレーズが入っていて気持ちがいい。
「けんのみ食わせやがって」
「はばかりさま」
「つめたいお宝稼いであったかい飯を食わせる」

こういうのは雰囲気が出ていていいですね。意味が分からないからといって、なんでもカットしてしまうのはいけない。
なに、落語なんて全部わからなくてもいいのです。もともと、子供はそうやって聴いている。

作成者: でっち定吉

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