桂宮治衝撃デビューの笑点と同じ日に、NHK日本の話芸では春風亭昇太師登場。
昇太師は最近、日本の話芸に出るときはずっと古典落語だ。
前回の「御神酒徳利」はいささか物足りなかったのだが(もう1回ちゃんと聴けば蘇るかもしれない予感もありつつ)、今回の「そば清」は、新作で培った感性をぶっつけて生まれたハイブリッド古典。
実に楽しい高座でした。
それはそうと、先にいただけない点を挙げておく。
師匠、「さ入れ言葉」がてんこ盛りですぜ。
「20枚のそば賭け、やらさせていただきます」
「少しだけ、休まさせてくださいませんか」
さらに2か所「やらさせていただく」があった。
私は別に日本語教師じゃないし、正しい日本語警察でもない。
落語という伝統芸能の中では、守るべきスタイルがあるならきちんと守って欲しいというだけ。
「やらせていただきます」「休ませてください」でいいのだ。ねえ、会長。
そば清なので、食事のマクラ。
師匠についていった旅先で、お囃子さんたちとともに食堂でカツ丼を食べる話。
若い人がもりもり食べるのを喜ぶ師匠のために、さして食欲あるほうじゃないのに一生懸命食べてみせる昇太師。
師匠・柳昇をしのぶ貴重な話でもあるし、昇太師の幇間気質もうかがえる。
しかしまあ、マクラの話術が実に気持ちいい。
当ブログではこのところ、噺家の「圧の強さ」に迫っている。
昇太師も、圧は強めなのだけども、客に迫るやり方ではない。言葉の強弱にもメリハリがあって、客が気を抜ける。
そば清の大食い、清さんは、とても気弱な男。
本当は、「実は気弱」なのだけど、昇太師に掛かると本当に気弱に見える。
このあたりに、新作で培った師のキャラクター造形の偉大さを見るわけである。
文珍師が志の輔師の落語全般を指して、「困る人の噺やな」と評したという。
それを思い出した。昇太師の場合にも、どの噺にでも出てくる共通項がある。
「ヨワる人の噺」といえばいいか。
そして、30枚のそばをすんなり食われる若い衆たちもヨワっている。
細かい部分、よく聴くそば清と結構違う。自分で開発したのだと思う。
- 若い衆のワイガヤは短い
- 与太郎みたいな男も出ない
- 若い衆たちは清さんに対して、なぜか偉そう
- そばを食うシーンもできる限り簡略化されている
- 50枚のそば勝負を避けた清さん、江戸にいられなくなり信州に逃げている
- 信州でもそばの賭けをして生計を立てている
- 清さん、お腹が膨れたうわばみに深く同情する
- 清さん、「体調の悪いときだってある」と独り言
- ネタバレが入っているが、説明が非常に手短か
私はSWAの盟友、柳家喬太郎師の「そば清」が大好き。
そういえば喬太郎師は、定評のある女子高生描写の際、セリフにどうしても「ら抜き言葉」を使いたくなくて、「食べらんないよね」と言わせるのだ。
ら抜き言葉はすでに一般的になっているが、こだわりを優先してリアリティを潰さない、そんな方法もある。
言葉の問題はさておいて、昇太師の「そば清」の方法論は、喬太郎師とまた違う。
昇太師には、タメるギャグはほぼない。そばの食べ方で笑わせるといった手段もない。
キャラ造形を深掘りせずにどんどん飛ばしていく。
ある種非常に乱暴な落語。新作から学んだ手法に違いない。
うっかりすると客も置いていかれてしまいかねないが、楽しさはちゃんと遅れて追いついてくる。
なにが楽しいか。結局、深掘りしないキャラがだんだん前面に立ってくるのだ。
客が、詳細に描写されない清さんのキャラを勝手に肉付けして聴いているのである。
あるいは描写の隙間に、演者である昇太師のキャラがだんだん染み出てきて、ドキュメンタリーのような様相を呈してくる。
うわばみが猟師を飲み込むシーンで「ウワー」という乱暴な所作とか、一見、素人かよと思ってしまうのだが。
でも、この地に足が付かない浮遊感がだんだん貯金になってくる。
人がひとり死んでしまう噺なので、浮ついた描写は実に重要だと思う。
やってるほうも、とても楽しそう。
新作のような楽しさがあるのではないかな。
どこから来ているそば清かわからないが、ネタバレタイプ。
本来私は考えオチが好き。そもそも、噺自体みんな知ってるわけだし。
古くからネタバレタイプもあるのだが、これはこれで説明が長い。
昇太師のもの、ネタバレからサゲまでのスピードがそば清最速で、驚いてしまった。
噺を初めて聴くぼんやりしていた人は、「えっ」と固まってしまいそうだ。こんなやり方もあるのだ。
笑点司会者の本業にもぜひ着目を。