radikoで聴いた「上方落語をきく会」は実に面白かった。
昼の部3時間、夜の部3時間、その間にトークだけのつなぎ2時間。合計8時間の長丁場。
昨日、昼の部において、東京から出向いた羽光師が主役のようになっていた、そのさまを書いた。
だがもちろん、上方落語の先輩たちが受け入れ、ネタとして扱ってくれているからこそである。その先輩たち、そして後輩たちの高座も実に楽しいものだった。
羽光師の新作は、放送で出せるギリギリのエロらしい。
上方には桂ぽんぽ娘というすごい人がいて、トークでこの人の名前も出ていたけれど、たぶんぽんぽ娘さんだとオンエアできないんでしょう。
私は羽光師、そもそもエロだとも思ってないけども。エロではなくて「性欲」を扱ったところが画期的なのだ。
昼の部トリの笑福亭松喬師は、「お文さん」。正月にMBSの特番で聴いたばかりだが、何度聴いても楽しい噺。
「騙し」「裏切り」「秘密保持」「自白強要」など、あらゆる要素をぶち込みつつ、しかし江戸時代の商家の日常を描く、スケールがでかいのか小さいのかわからない不思議な噺である。
「悋気の独楽」ほど軽くはない、もうちょっと深刻な世界を描きつつ、しかし爽快感ある極めて高度な噺。
お文さんは先代松喬譲り。私にとっても、口調を含めその印象がある。
先代も当代も、丁稚の定吉がかわいい。
林家の人が掛けていた話だが、先代はお内儀をキーッとなる人に描かず、穏やかにして中和したのだと。
当代もその演出を取り入れている。
当代松喬師もトークで語る通り、男尊女卑の強い噺だから現代では難しそうなのだが、やりようだなと思った次第。
先日、羽光師の弟弟子である希光さんから「持参金」を聴いた。
これも相当に女性差別の強い世界の物語なのだが、希光さん、細かい部分に手を入れ、実に気持ちよく聴かせてくれた。
フェミニズムが強すぎ、落語ファンになれない残念な人もいるようだ。
だが、多くの人は噺から漂ってくる差別的な要素が表面的に気にならなければ、楽しく落語を聴けるわけである。
男尊女卑の世界こそ、工夫によって現代で生きるのではないか。
お文さんを聴き、改めて私はそう思いましたね。
もちろん、差別に気づく感性は必要だ。それに気づかない人では、残すべき噺の価値もわからない。
よく考えたら、芝居のほうでは仇討とか心中とか、はては子殺しとかさらに古い価値観が生き残っているのだ。
落語もやりようひとつ。
トークでもって松喬師、他人の噺を聴くのは楽しいと。
ただし、上方落語を聴くと負けたらアカンという気持ちになるので、楽しいだけでは済まない。
この点、東京落語はリラックスして完全に楽しく聴けるのだそうだ。
東京落語の多くは上方から出ているが、そのまったく違った演出についてもほおーと感心して聴けるのだそうで。
お文さんは浄土宗系の落語だが、東京に行くと法華が多くて演目が変わりますねと松喬師。
確かに東京落語は「鰍沢」「甲府い」等、法華の噺が多い。
笑福亭鉄瓶師は、笑福亭から新作落語が被ってしまってすみませんとお詫びして、「テープレコーダー」という私落語。
私落語(わたくしらくご)は、師匠・鶴瓶が始めたもので「青木先生」など有名。
なんでも最後に掛けてから、10年以上間が開いているらしい。
なのにこの噺知っていて、嬉しくなってしまった。ずいぶん以前にどこかで聴いたわけである。
奈良の田舎に住むいちびりの鉄瓶少年が、母親のすごいいびきを録音して遊ぶ内容。
笑福亭からこの会に多数出ている中で、智丸が古典落語をやってくれてよかったと鉄瓶師。
この仁智師の弟子が開口一番で出した転失気はとてもよかった。転失気に飽きて久しい私をうならせる一品。
智丸さんは詩集を出している詩人でもあるらしい。ユニークな人である。
笑福亭でも、松喬、鉄瓶といった人はラジオでよく聴くのだが、智丸さんは吉本だからやはりあまり聴けない。
中トリの桂南天師は、「桜の宮」。
珍しめで、どういう噺だったかなと思ったら、東京落語「花見の仇討」の原型である。
趣向をこらすのが、稽古仲間だというのが上方っぽい。
出てくる侍が薩摩である。
ストーリーはほぼ一緒だが、季節に向いたいい噺。
もうradikoの聴取期限も今日で切れるため、すべて記憶ベースなのだが、もう1回続けようと思います。
夜の会は話題の桂二葉さんとか、月亭方正師とか登場。トリは桂吉弥師。
続きが二つあります。