亀戸は前座を含め5人の顔付けなのが本来。
そこにさらに1人追加したうえ、披露目の口上を入れ込んでいるのだから、本来時間は刈り込まないといけない。
でも好楽、良楽と大ネタを出してきた。おかげで時間が大幅に押している。
眠気覚ましに外に出て缶コーヒーを飲んでいたら、前座の楽太さんが外まで声を掛けてくる。客も忙しいったらありゃしない。
慌てて便所に駆け込むと、まだ大勢用を足している。
便所にまで声を掛けてくる前座さん。ご苦労さま。
メクリは開口一番に替わっている。どんな「開口」だ。
期待のけろよんさん登場。待ってました(言わないけど心の声)。
「三遊亭けろよんで一席申し上げます・・・こんなところに上がって私が一番驚いております」
思わぬクイツキになっても余裕シャクシャク。大したもんだね。
ちなみに「けろよん」のアクセントは、冒頭高で落ち着いたようである。まあ、バハハーイのケロヨンの発音でもいいんじゃないかと思いますがね。
時間がないので、手短に小噺。
まず「七日八日」「九日十日」。
実につまらない(文字通りの意味で)小噺なのに、けろよんさんが語ると妙に楽しい。
語る本人が前座らしくきっちり話そうとするのではなく、落語として楽しく語っているからみたい。
こんな小噺にも、どこか楽しい部分があってそれを拡大してやればいいということか。
堂々とした余裕の語り口も秘訣。高座の芸人が後ろに引かないため、気合を感じた客が勝手に楽しんでくれる。
初めてこの人の高座に出くわした際の、「八九升」の前に振るつんぼの小噺を思い出した。
けろよんさんに語らせれば、「仁王」でも「酒の粕」でも「お前の親父だ」でもなんでも面白いだろう。そう思う。
客の反応上々で「もうひとつ小噺を」と。味噌豆。
5分あればできる、こんなときには重宝する小噺。ちゃんといいオチもついているし。
円楽党では聴いたことないけど。
これまた見事。
実にうまそうに、煮えた味噌豆をつまむ小僧の定吉。
扇子を使って味噌豆を器によそる所作も上手い。
そして、前回聴いた「転失気」と同様、子供が出てくる噺なのにもかかわらず、噺が大きい。
ちゃんと大人が、大人の感性を使って楽しむ噺になっている。
子供に小言が利かないと困るが、そうはいいつつ煮えた味噌豆をつまみたい、主人の了見が高座に現れているからだろう。
もっとも、今度はなんでそんな大人の語りができるのだろうと考えてしまう。できる限りその本質に迫ってはみるけれど。
まあ、プロにだって語りの秘訣がわからないからこそ、ヘタクソな噺家が多数いるわけで。
「お代わり持ってまいりました」というサゲも、取ってつけたというより、あたかも武道の立ち合いみたい。
主人の「定吉、何しに来た」という太刀を、見事に自分の刀で受け止めた、そんなイメージ。
けろよんさんの楽しい小噺、円楽党の噺家の中では、二ツ目の三遊亭鳳月さんのイメージが最も近い。
ただ鳳月さんは、もっとずっと気合の入った高座である。
けろよんさんは、肚がとても強いのに、同時に非常に軽い。対立しそうな要素をともに感じるから不思議。
期待のルーキーだから、小噺2本じゃつまらない、もっと聴きたいと思っても不思議ない状況だが、意外とそうでもなく非常に満足。
高い完成度の話芸に触れたとき、5分でも15分でも満足度はさして変わらないのであった。まあ、こんなことを感じる機会自体、そうそうないけど。
亀戸や両国の開口一番もいいのだが、けろよんさん自分の会もぼつぼつあるようなので来てみたいものだ。
続いて今日も楽しい新真打のひとつ上の兄弟子、好の助師。
披露目の司会も似合っている。落語協会の玉の輔師や、芸協の遊雀師などに通じる楽しさを持っている人だが、さらに緩い。
もっと売れるべき人だと思います。
前座に時間をキツく言われてまして、新真打に時間を残すため3時過ぎには下りますのでと。ただいま2時55分。
私も真打になって4年です。林家九蔵襲名断念からもうそんなに経ちますか。
好一郎は、好楽の弟子のうち最年少なんです。最後まで生き残りますだって。
4番弟子なのに、そのあとの6人の弟弟子たちがみんな年上なんだな。
次の好楽は間違いなく好一郎でしょうとヨイショまで。
町内の若い衆を、本当に5分程度で掛けてしまった。
時間は短いのにちゃんと中身が詰まっている。怖いかみさんと八っつぁんのやり取りを少々カットしたようだが、見事な編集だ。
時間の短いぶんいっそう軽く、実にいい一席。
どうでもいい世界に住むどうでもいい長屋の住人のどうでもいい噺。
どこか嫌味な円楽師の「町内の若い衆」よりずっといい。名前出すことないのだけど。
好の助師、昇進後はよく聴いたのだが2021年は聴きにきていなかった。
また聴きに来ますよ。長いのも。