太神楽「翁家社中」と寄席の笑い

ひと月前に出ていたコラム。

特集「色物さん」第3回翁家社中
(ほぼ日刊イトイ新聞)

リンク先は、翁家社中だけで5回あるうちの3回目である。
よかったら最初からお読みいただきたい。
翁家社中は現在、和助・小花の夫婦でやっている。二人とも国立劇場養成所の出だ。
弟子どうしが夫婦になったという面白い例。
落語協会の寄席でもって、日々楽しい舞台を披露している。そして、私の観る限り、太神楽でいちばん面白さを追求している。
超ベテランボンボンブラザースも面白いが、あれはサイレント芸だから方向性が違うわけである。
ほぼ日のコラムを読み、かつて私の書いた記事へのアンサーが得られた気がしたのだ。

太神楽にも笑いが欲しい(タモリ倶楽部より)

私が書いたのは、若手太神楽師たちがせっかくタモリ倶楽部に呼んでもらえたのに、笑いの面で爪痕を残せなかった嘆きである。
書いた中では、翁家社中のふたりについては触れていない。だが、その後彼らの舞台を見るたび上記の記事を引いて「太神楽にもっと笑いが欲しいのだが、翁家社中はすばらしい」と使っていた。

今回のほぼ日のコラムを読み、改めて翁家社中がどんなに「笑い」についての覚悟を決めているかがわかった。
だが、それだけではない。もっと先の先まで考え抜いている。
この考えの深さに比べれば、私が書いた内容など「色物たるもの、笑いを入れときゃいいんだ」レベルに過ぎない。
いささか底が浅いなあと反省している。
翁家和助師匠がインタビューで語っている「色物の掟」自体は、寄席で売れてる色物さんなら承知している内容。
流れの中で邪魔をしちゃいけない。笑いを総取りしてはいけないという。
そこだけ抜き出せば、曲芸である太神楽は、客の目を楽しませるだけでいい仕事。それでいいじゃないか、そうも導ける。
だが和助師匠、寄席の常識は100%わきまえたうえで、師匠・故和楽のやってきた笑い芸を引き継いでいきたいのだ。
その日の客をよく見て、落語で満足しているお客さんに対し、笑いの要素を必要以上にぶっつけることはしない。
噺家のいい高座が続いたときのことだろう、そういう際はお客の頭を空っぽにしてやるほうが、いい仕事となるのだ。

ここ最近の翁家社中、夫婦でやっている彼らは本当に面白いなと思って観ている。
だが和助師匠に言わせれば、落語と被ってしまう面白さも中にはあって、反省しているのだそうで。
ちょっとよくわからないのだが、落語と被るというのは「おかみさんが強すぎる」であろうか?
私の目には寄席の色物として非常に自然なやり取りに映るのだが、いっぽうで噺家さんが「熊の皮」「加賀の千代」などやりづらくなる危険性があったのかもしれない。

和助師匠は養成所を出てから、故・和楽に弟子入りし、和楽・小助の兄弟とともに寄席に出ていた。
その頃は、ほぼ日の記事中にもあるが「僕ですか」というのが笑いの役割だった。
それに飽き足らず、「自分が主役になったらもっとこんなことをやってウケてやるんだ」なんて、そんな勘違いに走っても不思議ではない。寄席芸人伝あたりには、そんな登場人物がたくさんいる。
実際にはそんな低レベルの勘違いはまるでなく、日々同じことを繰り返す中で、自分なりのフォーマットをつかむ努力をしていたのだろう。
それが真に芸を継ぐことだ。色物の舞台を継ぐことでもある。

ともかく、太神楽への誇り、そして寄席の色物の誇りがにじみ出てきて感服した次第。
寄席では噺家が一番大事、だから色物は遠慮しなければならない。窮屈だね。なんてそう思う人もいるだろう。
でも色物には色物のプライドがある。色物の最高の出番は、トリの師匠の前に出る「ヒザ」。
ヒザは主役を前提に置いた芸。目立ちすぎちゃいけないこの出番が、最高の栄誉だと内面化している人しか寄席にはいない。

初心者で、寄席に通うようになった人は、色物から先に注目することも多い。
噺家は次々出てきて、なんの噺したんだかわからなくなるし。
だが噺家の個性がわかるにつれ、色物を軽視し出す、そんな人も中にはいる。
それどころか、色物が出る寄席なんて面倒だなと、そう思ったりなんかして。
もちろん大きな勘違い。色物さんがいなければ寄席は成り立たない。
そして、落語と同様、決していつも同じ芸ばかりやってるわけでもないのだった。

作成者: でっち定吉

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