神田明神「若手噺家を楽しむ落語の会」の桂鷹治(下・「片棒」)

すみません、当日出しでもないのに更新遅くなりました。

3席目をまたしても、ごく自然に始める鷹治さん。
こういう仲入りなしスタイルの独演会はたまに見かけるが、一席ずつのつなぎ目はどうしても多少不自然になるものだ。
鷹治さん、日本一続けての高座が上手い人かもしれない。まあ、日頃それほどそのスキルを見せつけるシーンはなかろうが。
今度のマクラは、円安の話。

私が物心ついた時には1ドル75円ぐらいだった覚えがあります。それが今や150円を突破するという。大変ですね。
私はほかの噺家と違って、こういうことはちゃんと理解して高座で話しますから。仲間の中には、1ドルが150円になったら高くなったんじゃないのなんて言うのもいますが。
私は円楽師匠の後釜を狙ってますからね。

これが薄く「ケチ」につながるみたい。
三席目は片棒。
この一門からは、かつて桂小文治師のものを聴いた。一度だけ行った、らんまんラジオ寄席の公開録音の場である。
その際は、落語協会と結構スタイル違うんだなと思った覚えがある。落語協会では「うるせー馬鹿」に全力を込めている気がしていた。それが悪いなんていうのではなくて。
だが鷹治さんのもの、落語協会で聴くものと違いは感じなかった。
いっぽう、当時の小文治師の記事についてわずかながら書いていることを読むと、「次男はもともと親父の葬儀を計画している」らしい。
これはちゃんと引き継がれていて、やはり大師匠先代文治から来る、一門の芸なのだなと。
序盤、番頭さんが旦那に跡継ぎ候補を訊かれ、「正直言えば3人ともダメです。あたしが夫婦養子に入って継ぎます」ととっておきのボケをかましている。

1時間の会で、最後に盛り上がりのあるシーンのある片棒を持ってくる構成が実に巧み。
実際盛り上がっておりました。

片棒の中でも、徹底して次男をハイライトに。
だから長男の場面はギャグも少なく、控え目。
次男の場面、唄まで入っていた。そして鷹治さん、実にいい声。
こんなに喉がいいというとっておきの武器があるのに、あからさまに披露はしないところに美学を感じる。別に市馬師のやりかたがいけないって言うんじゃないですけど。
次男の妄想に至るまでを入念に構築しておき、いったん始めたらあとは息をつかせずノンストップ。鳴り物から笛に神輿。
花火が上がるあたりでは、我々客も、この楽しいイベントがそろそろ終わりなんだという寂寞感を一緒に味わうのであった。

改めて、片棒という噺がいかに難しいものかがわかる。
なんてことなしにやって見せることで、実に高度な内容だということが見えてくるのだ。
一席目の山号寺号を聴いていると、鷹治さんは噺を実に平板に語れる人である。
それが三席目ではこの跳ねっぷり。しかし違和感ゼロ。軸はひとつもブレてない。

残念なことがひとつ。
次男の妄想があまりにもすばらしく、中手が入る。これはいい。
だが、中手を「うるせー馬鹿」の直前に入れてしまったので、盛り上がりの頂点がダレてしまう。
別に責めやしないが、客も入れるんなら細心の注意を払って入れたいものだ。

中手については、一度記事を書いている

ちなみに私はめったに中手を入れない。堀井憲一郎氏みたいな主義主張ではなく、高度な技だから軽々しくできないのだ。
ただ先日、橘家文吾さんの「五人廻し」の啖呵に感激しつい入れた。入れないほうがよかったなと反省している。

盛り上がりをリセットし、三男の静かな場面を粛々と進める鷹治さん。
片棒聴くとき、いつも思うのだが演者はこの際どんな心境でいるのだろうか。
もう盛り上がりはいらないが、客を退屈させるわけにはいかないという。
もちろん三男は親父の上前をはねるケチだから楽しいのだが、従前の盛り上がりと質がまるで違う。

「親こうこう」「臭いものに蓋」というクスグリ、以前からこの場面に合っていない気がしてならない。
思ったんですがね。こんなやり方ないですか。
三男がサラッと「菜漬けの樽に入ってもらいます。親こうこうです」。
親父が早めのツッコミで、「臭そうだな。まあ死んでるからいいか」と返して、息子のギャグに気付かない。

ともかく難易度の高い片棒を、持てる力すべてを発揮し、しかも露骨に見せつけない江戸前の鷹治さんに感動。
真打昇進はあと4年ぐらいかな。

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作成者: でっち定吉

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