ライターはいかに記事をヒットさせるか

なんだかハウツーものみたいなタイトルですが、そこまでのもんじゃありません。日記の延長です。

ネタがなくて更新休んでしまった。
まったくないわけではない。だが多くのネタの素がモヤモヤしたままだ。
たとえばアニメ「うちの師匠はしっぽがない」とか。その架空の師弟関係を毎週楽しませてもらっているが、なかなか形にならない。
落語となんの関係もないゆたぼんのことでも書こうかと一瞬思ったのだが、落語と結びついてからにしよう。

ゆたぼんネタは過去にひとつだけ書いている。
俺は寄席には行かない!

ところで、ネタがなければ作りに行けばいい。
池袋中席が喬太郎師の芝居で、これに行っていれば6日分ぐらい作れたのだが、やめてしまった。
せっかくの喬太郎師に行かないなんて。まったく後悔していないわけでもない。
でも落語は、趣味である。広告収入が上がりだんだん仕事っぽくはなってきたものの、それでもなお。
私は20年間競馬に熱中し、あるとき飽きてやめた過去がある。
だから趣味については深入りしすぎると、結局全部崩れてしまうと思っていて、落語については特にこれを警戒している。
落語を聴きに行くのも、今ぐらいの頻度がちょうどいい。そのために、聴きたいのに聴き逃している人が多数いるのも事実だが。
高座の模様を詳細に書くことに不快感を持つ人もいるようだが、しかしこのおかげで一定のペースが保てているのだ。
なにしろ後で読み返して再度楽しめるから。
老後も、当ブログの積み重ねがあれば退屈せずに生きていけると思っている。
広告収入も積み重ねられたら年金になるなあ。

喬太郎師に行かずにどうしていたかというと、本業であるキャッシュレスの現地取材に出向いていた。
QRコード決済のキャンペーンである。
勝手に行っているので取材費など出ないが、大型還元中のため現地で利益を得て帰ってきたのだった。
Googleポータルに自分の記事が掲載されるのは嬉しいものだ。最近は、本業のほうと、このでっち定吉ブログと両方掲載されることがある。

キャッシュレスの世界も本当に面白い。
次から次に新しいものが出てきて、ルールもどんどん変わっていく。
ついていけないと思う人も多いだろう。だが、ついていけない人のおかげで、ライターの存在意義があるというものだ。
最近になってようやく、世間が潜在的に求めている内容を書けるようになってきた気がする。
潜在的、というのがポイント。
求める内容が顕在化している場合、それに対応するアンサー記事は、情報として消化されはするが、それほど累計アクセスは集まらないのである。
あ、実はこれが読みたかったのだという記事が、ブレイクする。読者に気づきを与えるといいのだ。
そんな成功例が、今もひとつブレイク中。
といっても、自分のサイトじゃないので直接的な見返りは特にない。ひとり喜ぶだけ。

落語のブログでは、ここまで入念に組み立てはしない。好き放題を書くだけだ。
当たったりそうでもなかったり、いろいろ。ただ、天歌事件などは、多少世間の求めに応じてというところはある。
ただ、「潜在的に求めている」内容が当たることはでっち定吉ブログでも同様のようだ。

立川雲水、とかいうと読みにくる人が落語ファンでないのでちょっと傾向が違うのだが、円楽批判などはまさに人が潜在的に求めている領域に当たったのではないかと推測する。
あの師匠が好きな人は世間に多かった。そのことはまったく否定しない。
でも、好きな人も含めて、ちょっと思うところはあったのではないか。

最初は世間に対し異を唱える取り組みだったのが、小三治批判。
たとえ世間から嫌がられても声を上げたかったのだ。
だが、孫弟子(かけ橋)の破門と再生このかた、なんだか私が批判してきた内容が当たり前に変わってきてしまった気がする。
世間をねじ伏せるのに成功したのかもしれない。
でも、別に勝利感はない。

中にはアクセスが多くても理由がよくわからない記事もある。やはり、世間の意思をあらかじめ読み解くのは難しい。
元三遊亭愛九なんてなんでヒットしてるんだろう? 別に有名な二ツ目でもなかったのに。
これに関しては完全に、私のマッチポンプな気がする。
立川幸弥も妙に多いのだが、これもよくわからない。

作成者: でっち定吉

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