スタジオフォー巣ごもり寄席5(上・桂竹千代「唖の釣り」)

日曜日に小金井に行き、それはそれは満足した。
満足の模様を5日にわたって長々とお届けしたところ。
続いて早くも水曜日には出かけてしまった。
出かける理由はふたつ。
ひとつは、1年半ぶりになる、春風亭朝枝さん。
先日東京都水道歴史館の会でお見かけするのを楽しみにしていたのに、直前でコロナ休演だった。
朝枝さんはいつの間にか神田連雀亭も抜けている。もともとほとんど出たことないんじゃないか。
もうひとつの理由は、西巣鴨交差点の角にある、北区滝野川の「スーパーみらべる」で、PayPay30%還元の買い物をすること。
還元スーパーで買い物すれば、交通費ぐらいすぐ出る。下手すると木戸銭だって出る。
日曜の小金井の会も、帰りに杉並区のスーパー「アキダイ」で30%還元の買い物をしたかったのだけど、家の用で断念した。
私はスーパー評論家になろうかと思ってます。「超すごい評論家」ではなく。
将来有望の噺家とスーパーが同列? そんなこともあります。

巣ごもり寄席は定員40名なので、前日に予約。
この会も5度目か。最近、古今亭の好きな師匠たちの出る「四の日寄席」にはまるで来ておらず、二ツ目のこちらの会ばかり。

穴どろ 一猿
啞の釣り 竹千代
夢の酒 朝枝

日曜日に聴いたばかりの一猿さんにまた遭遇。
スタジオフォー、久々に来たらアクリル板がないですねと。
神田連雀亭はまだあります。刑務所の面会みたいです。
結婚式に先日出席したら、新郎新婦もアクリル板越しの指輪交換をしてました。

そして同じネットフリックスの吹き替えの話題(ウケよし)から、同じ穴どろ。
別に文句は言いません。季節的にそんなものだろう。
ところが、中身が結構違っていて驚いた。追加されてるシーンがあるのだ。

  • 金策してこいというかみさんに塩をまかれて、塩まみれ
  • この塩を、料理に振って再利用
  • 劇中落語が長い

もう少し違いがあったと思う。
劇中落語というのは、忍び込んで酒を盗み飲みしながら、上下を振りつつ店の旦那に身の上話をして、3両どころか5両めぐんでもらうくだり。
全部男の妄想である。

一猿さん、結構器用な人なんだなと。
時間に合わせて尺変えるのだ。それも丸ごとカットとかでなく、細かい部分でもって。
ちなみに、世之介師から教わった噺と勝手に思ったのだが、今回はそれほど感じなかった。
ただの勘違いかもしれない。
違うとして、どこから来たのかはまるでわからないけど。

25分ぐらいやっていた。
続いて桂竹千代さん。
そろそろ芸協で抜擢が発表される人と、 私は勝手に思っている。
芸術祭新人賞を獲ったので、実績は十分。
古典が上手く、新作が面白く、そして売り物の古代史落語がある才人。

私はこの近所に住んでましたといって、地元客を喜ばせる。北区西ヶ原(住所とアパート名まで言っていた)、本当に徒歩5分ぐらいです。
マクラは師匠とタイの話。現地でタイ語で落語をする師匠。
「伝わる」「伝わらない」というテーマが本編につながるみたい。

七兵衛さんを与太郎が訪ねてくる。
また唖の釣りだ。つい先日、連雀亭で萬丸さんから聴いたばかり。
夏にも柳家小もんさんから聴いた。
流行ってるなと感じていたのだが、本当みたい。
しかも全員協会(団体)が違う。

実に古典落語らしい、よくできた噺。障害者差別だと糾弾されることさえ恐れなければ、流行ってまったく不思議ないのだが。
明確に「唖」というワード使ってた人はいなかったような。竹千代さんも使わない。
竹千代さんのもの、萬丸さんとよく似ている。団体は違っても、出どころ一緒みたい。
ただ、改作も得意なこの人だけあって、相当に手を入れていた。
サゲも変えていたが、それよりもっと大きな工夫がたくさん。

「唖の釣り」は、コミュニケーションギャップを描いた落語。
普通は、なにかの障害により話が伝わらずトンチンカンなやり取りが発生するわけだ。だがこの噺はその構造を裏返し、「なぜか伝わる」のである。
見回り役人に見つかり、ショックで口がきけなくなって身振り手振りで説明する七兵衛。
この即席手話が伝わるから面白いのだが、竹千代さんは「伝わるわけがない」状況を呈示するのだった。
七兵衛の一連の説明のうち「悪いこととは知りながら」のみ、仮面ライダーの変身ポーズのごとく大きな手振りをするのだが、動きと意味が一切合っていない。
なのに見回り役人Bには完璧に伝わる。役人Aにはわかるはずがなく、このギャップが大爆笑。

お笑いのほうのセンスだよなあと。竹千代さんも元漫才師だ。
ただ、蒟蒻問答がヒントになってるとは思う。

やはりただものではない。

面白いなと思ったのは、与太郎が大声で、殺生禁断の池に出かけようと七兵衛さんに声を掛けるくだり。
隣にスピーカーババアが住んでるので、気が気でない七兵衛。
普通はこんなところ「まあいいや」でそのまま出かけるのだが、ちゃんと「灯りがついてないからもう寝てる」と結論づけてからにする。
客は気にしなくても、演者が気になっているので穴を塞いでいる例だ。
それも大事なこと。

続きます。

 
 

作成者: でっち定吉

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2件のコメント

  1. (論点がズレているようでしたら削除ねがいます。)

    僕は手帳を持ってる障害者です。
    コミュ障の代名詞みたいな発達障害(ADHD)のある。
    発達障害は自閉症でもあり、当事者でもADHDもしくはADDが入っていないと唖か吃音者のような人もいる発達障害の者です。

    古典落語の噺には、発達障害が入っているとしか思えないキャラがたくさん出てきますし、マクラで聞いたり、YouTube動画で見る限り、演者のほうにも、しくじり内容から発達障害の傾向があるようなエピソード満載ですから、僕は落語の世界にとても親近感があります。
    だから、精神障害者への過剰な配慮で本来の味わいをそこなうようなことはして欲しくありません。
    むしろ、精神障害者が「そっち(落語)の世界にもいたよ、ウチらみたいのが。」と言えるような噺を聴きたいです。

    全盲でなくても視覚障害者はいますし、必ずしも白杖を使用している人ばかりではありません。
    当時、片目の視力を失いかけていた友人と国立演芸場へ行った際、さん喬師の「心眼」を一緒に聴きましたが、本人からは特に感想はなかったものの、連れ出した僕のほうが悪いことしたかな、と気になったので、障害者配慮をする側の気持ちも分かります。
    でも、あの落語を高座で聴けたことには今でも感謝の念しかありません。

    1. いいエピソードです。ありがとうございます。
      私も、与太郎に親近感を抱く者です。
      ただ、色々な人がいることは心に留めておくつもりではあります。

      最近、世の成熟を感じます。
      この時代も、執拗な言葉狩りの時代があったからこそという気もします。
      戻って欲しくはありませんが。

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