上方落語をきく会2023(下・桂二葉しごきの会)

昨日、絶品であることにだけ触れた、桂南天師の「ちりとてちん」を再度聴いてみた。
強く惹かれるその要素がわかった次第。
古典落語をやるにも創作力は必要だ。だが多くの噺家にとっては事実上、創作というより「アレンジ」にとどまる。
南天師の古典落語は、創作の方法論が根本から違うように思った。どういうことか。
古典落語のストーリーを腹に収めたうえで、どうやら一から自由に作っているようなのだ。
アレンジの利いた古典を聴くと、脳内にあるテキストを揺すぶられて興奮することがある。
だが、南天師の高座から得られるものはまた別の感動。東西で散々聴いているちりとてちんが、まったく違うものとして聴こえてくるのだ。師が古典落語を原点に、一から創作しているからではないのか。

豆腐を腐らせたのは旦さん自身だし、愛想のいい男は隣の部屋に避難していない。
この工夫はいずれも劇的な効果を持つものではないのだが、南天師がゼロベースで積み上げたちりとてちんにとても合っている。
こんな作品だから、クスグリもアレンジに聴こえない。新作のギャグのように聴こえてくる。
(長崎名産だから)「さだまさし!」とか「ザビエル!」とか叫ぶギャグも、実に自然。

古典落語のアレンジに悩んだ噺家は、南天師の方法論にならい、一から創作し直してみたらどうでしょうか。
明治の頃の名翻訳家、黒岩涙香はそういえばこんな仕事をしていたらしい。
原文を逐一翻訳するのではなく、読み込んでから、原文を一切参照しないで起こしていったらしいのだ。
だから全然翻訳ではないのだが、我が国の文学史に与えた功績は偉大なもの。

ちなみに、上方落語をきく会の放送時間が長いため、タイムフリーで繰り返し聴くと、すぐタイムアップになってしまう。
だがちりとてちん、サゲを南天師が語ったところでちょうどタイムアップ。ありがたい。

(2023/7/10追記
桂南天師の古典落語の創作のやり方を「ラジオ焼き」と命名しました)

さて、夜の「桂二葉しごきの会」について。
こちらも再度聴きたかったのだが、一番気に入った「幽霊の辻」を聴き返している間にタイムアップ。

桂二葉さんは相変わらずの売れっ子路線のようで。
フジテレビの「ぽかぽか」の曜日レギュラーらしいが、私には朝昼の帯番組を見る習慣がなくて。
NHK新人落語大賞から生まれた、初の売れっ子であることは特筆すべきことだ。特に大阪では。
毎週のように東京に来ている二葉さんは、東京でも会を多数やる。私も参加したいが、現状大きすぎる会が多いなあ。

しごきの会は、若手が3席ネタおろしするという、大変なもの。
そして、しごき役として師匠・米二と吉弥の両師。
二葉さんのネタ出しは次の通り。

  • 味噌豆丁稚
  • 幽霊の辻
  • らくだ

らくだは、師匠は褒めてたが私はいいとは思わなかった。
二葉さんの語り口は、極めて音域が高く、男のセリフとしてはリアルではない。
だが勢いがあるため、落語の中では、現実にはないリアルをもたらすのである。
この、疑似リアルでらくだを語ると、らくだの暴力性が男の噺家以上に浮き上がってきてしまうのだった。
上手いがゆえに、噺の特性が表れてしまったという例。
まあ、暴力も演者によっては面白いもの。私はあまりそういうのを得意にしていないというだけのことなのだが。

小佐田定雄先生の新作である「幽霊の辻」(ゆうれんのつじ)は大好きな噺。
古典ぽい新作ではなく、別の文法で書かれたいかにもな新作なのだが、さりとて古典落語の世界に置いても浮かない不思議な魅力の噺。
皆が記憶の底に持っている、伝承をベースに書かれているからだ。
東京でも3度聴いた(権太楼、文治、権之助)。
二葉さんには、九雀師から教わったというこの噺がぴったりだったと思う。

日の暮れがたに手紙を持って、堀越村を目指す男。
「お前の足でもさすがに今晩堀越村は無理やろ」と、性格を見抜かれてうまく頼まれてしまうというくだりは、二葉さんのオリジナルか。

幽霊の辻は物語の奥行きは深いのだが、構造自体はほぼ、茶店の婆さんと旅人の2人だけ。
実際に怖い旅を始めてからサゲまでは非常に速い。すでに旅が怖い理由がすべて明らかにされているからだ。
婆さんは親切に、道中の「水子池」「獄門地蔵」「てて追い橋」(二葉さんはわかりやすく「父追い橋」に変えていた)などのいわれと、実際に起こる事象を事細かに教えてくれる。
この婆さんが、二葉さんにぴったり。
真面目に語っていても、人をおちょくっているように聞こえてくる。これはもう、才能でしょう。
さらに二葉さんの語りは、「間違って無実の侍をなぶり殺しにしてしまった」「橋を架けるために人柱をした」などのうしろ暗い歴史を、悲惨さなく説明できてしまう。
やはり、どこかがふざけて聴き手に響くようである。

開口一番で出した小噺「味噌豆丁稚」(東京では、味噌豆)では、丁稚の一人称で語っていたのに「主人の私」と間違ってしまう。
本人は後悔しきりだったようだが、こんなのも味です。
間違ったら、開き直って客を救ってやるのが演者の大事な仕事だ。

今回の昼の部夜の部で出た11席のうち、8席ほどは待っていればなみはや亭で掛かるのではないかな。
吉弥師の「蛸芝居」なんてのも。
この見立てが重要な噺をラジオで掛けるため、説明を入れていた工夫が面白い。

上方落語も実に面白いですよ。

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作成者: でっち定吉

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