神田連雀亭ワンコイン寄席48(下・桂竹千代「締め込み」)

続いて桂竹千代さん。
今浅草に出ていますが、本当にお客さんが戻ってきました。もしかするとコロナの前以上に。
まあ、ここ(連雀亭)はいつもどおりですが。
ここだけですよ、アクリル板を取らないのは。
大学で落語することもあるんですけど、一番厳しい大学だってもう、マスク付けずに話せるようになりました。
オーナーがいろいろ、この高座の後ろの換気とか手を掛けたので、今さら外せないんでしょうね。
みなさんの署名活動があれば、アクリル板も取れるかも知れませんね。

お客さんの少ないときもあります。
先日仙台に行きました。仙台には花座という、芸術協会の運営する寄席があります。
そこに後輩の立川談州さんと行ったんですが、お客ひとりでしたよ。
しかもそのひとりだけのお客さん、東京から来た人でした。
今日はそれに比べて、7倍のお客さんですからね。

本編は締め込み。小噺を振るようにひっそり入っていった。
これがまた、オツな一席で。
古典と新作、そして看板の古代史落語の三刀流の竹千代さんだが、個人的には古典が一番響く。
竹千代古典のなにがいいか。
登場人物の乱暴なキャラが、全部噺の内側に収斂する点ではないだろうか。
竹千代さんは本質的に圧の強い人。
特に新作や、地噺としてやる古代史落語の場合、この圧が客に直接刺さってくる。それが悪いというんじゃないが。
この強い個性、古典落語にフルに活きる気がする。
古典に専念しろなんて言わないですよ。新作は創作力を磨くのに役立つし、なにより古代史落語あっての竹千代さんだ。
ともかく、この人の古典落語を聴いて外れたためしがない。

古典落語に入れる強烈なクスグリも味なのだが、この「締め込み」に関しては、実にもって本寸法である。
1か所だけ「愛の逃避行か」と現代のクスグリ入れてウケてたけど。

泥棒の作った風呂敷包みから、勝手にかみさんの浮気を想像する亭主の怒り。この怒りが噺の内側に向かい、客の側にはみ出してこないため、聴いていて違和感がない。
実に自然であり、気づくと「亭主、アホじゃないか」という当たり前の感想を忘れていたぐらい。
締め込みの世界は、本来不自然。だから演者として、不自然な設定を維持するための語りになりかねない。全然そんなことがない。
帰ってきたかみさんとの激しい口論が、「設定を盛り上げる」ものには聴こえてこない。
架空の自然な情景を描き出すのに成功すると、客は噺に飲み込まれる。
クスグリよりも、客が世界に対し勝手にクスっと笑う感じになる。
熱湯が掛かって飛び出る泥棒の姿は妙にリアルだし、そこからの仲裁も自然。
泥棒の頼りない造形が夫婦に挟まり、見事なグラデーションを作る。

落語というのは、無理に笑わせるもんじゃないのだ。
てなことをしばしば言うが、わかりやすい見本がここにある。
笑いの生じる状況を丁寧に描いていけば大成功。客がそれをどう捉えるにしろ。
情況そのものがおかしくて、登場人物間にツッコミ不要。
泥棒がこれで足を洗うとか、最近ありがちな要素などない。
あくまでも呑気な世界である。

芸人上がりの竹千代さん、笑いの要素もかなり重視しているし、それが響いてくることもある。
だが、本寸法に舵を切った作品もすばらしいのだった。

トリは柳家小もんさん。
おせつ徳三郎「花見小僧」をダイジェストで説明して、刀屋へ。
竹千代さんがたっぷりやって、13分ぐらいしかなかったが、時間は気にせずじっくり大ネタ。

これもまた、見事な一席。
笑いを完全に排除して語れるところが、まずすごい肚。
無理に笑う箇所を作ろうとすれば、ある。木刀のシーンと、「あたしの友達が」のくだり。
ここで、笑いを欲しがる姿勢を一切見せない。
笑いを抜く場合、代わりに涙でも入れておけば噺は持つ。落語に詳しくない人のイメージする「人情噺」ってそんなものではないか。
だが、笑いの代わりに入るわかりやすい喜怒哀楽は特にない。
刀屋の主人が語り込むだけで、噺の間隙はすべて埋まる。

上手い小もんさんだが、見た目はそこらのアンちゃんである。
なのに、貫禄のある刀屋を語れるのである。これ、かなり衝撃を受けた。
小もんさんが、高座の上で急に風格を身に着けたというならわかる。そうではない。
座布団の上にいるのはアンちゃんのまま。なのに、アンちゃんの作り出した噺の中では、貫禄ある刀屋が語っている。

これはまさに、高座の上から演者が消えた状態。目には映っているけど、消えたとみてよかろう。
徳三郎は刀を買って、嫁に行くおせつを斬り殺そうと考えている。
主人は、徳のたくらみをなんとかやめさせようとドキドキしているわけではない。危なそうなら売らないだけ。
万が一徳が刀を持ち出したりしても、難なくねじ伏せられるという胆力と、腕に覚えもあるのだろう。
となると、徳に対して人生訓を語ろうなんて重い気持ちはないのだ。いろいろ言ってるうちに、引き下がるだろうという見込みから逆算して相手をしている。
そう考えると、棟梁からおせつの出奔を聞いた徳が駆け出していった際の、主人の慌てぶりもよくわかる。
いずれにしても、それほど重い気持ちのないただの語りが、噺を隅々まで埋めている。
それに引き付けられた客、この間は若者に戻ってしまうのだ。
軽い話に聞き入るのは、主人が正面から徳に向き合っているから。

サゲが「先ほどのお題目で助かった」だったけど、間違い?
非常によかったので、サゲぐらい気にしません。

というわけで、すばらしい3席、1時間半。
若手の落語も、もっと聴きましょう。協会問わずすごい人がいますよ。

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作成者: でっち定吉

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