軽く楽しい道灌を終えて、そのままネタ出しの唐茄子屋政談へ。
唐茄子屋政談が好きじゃない最大の原因は、カボチャを売って歩きたくない若旦那を叔父さんが叱りつける場面。
フラフラしていた若旦那の了見が入れ替わるきっかけとなる、大事なシーンではある。
だが、数多くのハラスメントや毒親問題、他人に対するマウンティング加害など多くの問題を見てきた現代人にとってこのシーン、「叔父さんが若旦那を支配するための手段」と解釈することも可能なのだ。
圓歌パワハラ問題も、こんなシーンからするする浸み込んでくる。
現代人はもはや、「お前のためを思って」というおためごかしの支配に耐えることができないのだ。
このシーンで泣ける人は幸せな人である。
唐茄子屋政談のストーリーを、一度じっくり追ってみよう。
若旦那は叔父さんに叱りつけられたからといって、急に了見を入れ替えたりしていない。仕方なく重い唐茄子を運んで出かける。
その後も、人間が180度変わるなんてことはないのだ。送り出す叔父さんの側だって、そんな期待はしてないと思う。
たまたま親切な人に逢い、吉原田圃でちょっと以前の華やかな生活を思い、貧しい親子に逢い、単純に怒りに任せて大家をひっぱたくだけ。そしてなぜか暴力行為をお上に褒められ青緡五貫文。
運よく勘当が解けただけで、若旦那、主体的な努力など実は一切していない。
若旦那は、どんな時代においてもイマドキの若者。常に上から批判されがちな姿のままなのだ。多くの人がそうであったような。
そんな人でも、その後は家を継いで普通に商売に励んだのだろう。きっと。
「平凡で、格別取り柄もない若者の、特別なある日のスケッチ。本来触れ合わない人たちとの出逢い」だけだと思う。
そう思うと志ん朝なんてちょっとキツ過ぎて、叔父さんの圧力が、噺本来のレベルを超えてしまっていると思う。
このシーンさえ乗り切れれば、その先は押しつけのない人情に満ちており、むしろ好きな噺なんだ。
遊京さんはどう処理するか。
叔父さんは若旦那にしっかり怒鳴る。もう一回大川に飛び込め。
さすがに、知り合いに出くわしたらみっともないなんて発言、立腹しないなんてのはない。
だが、怒りはごく手短だ。
叔母さんもちゃんとフォローしてくれる。
それに叔父さん、若旦那がフラフラ天秤棒担いで出ていく際、物売りに避けろと声を掛けるほうが本性だ。
冒頭、吉原に通っているうちはよかったのだが、居続けするようになって勘当を食らう若旦那。
勘当結構とケツをまくってみせる。
後のシーンによれば、とりなしてくれたおばさんのことも、クソババアと言い放ったらしい。
このおばさん(叔父さんのかみさんとは別)に握り飯を食わせてもらおうと出かけ、追い払われる珍しめのシーンが入っていた。その後で死んじゃおうとなる。
若旦那が最もクズに描かれるシーンが、非常に気持ちいいのだった。
遊京さんは、この主人公を突き放して描かない。聴き手と若旦那を一体に置く。
その後、「こんな了見だから悲惨なことになっちゃったんだよアンタ」的な、教訓も語らない。
とてもいい出だし。
演者の解釈の仕方によっては、聴き手から見て憎々しい若旦那になってしまうこともあるだろう。
遊京さんの若旦那は、その甘ちゃんぶり自体に親しみがある。
そうだ、聴き手だってみんな若いころ間違いをしてきたんだ。
身投げ直前、さらに話が進んで吉原田圃の場面において若旦那は、「騙されたな」とつぶやく。
昔の唐茄子屋には、こういうのないんじゃないか。
今は自己責任論よりも、「誰でもいつでも災難に遭う」という描き方のほうがハマる。
「利他の精神」を考えるにもいい噺。
一緒にかぼちゃを売ってくれるおアニイさんはまさに利他の象徴。
おアニイさんは親切だが、真面目にやってりゃ勘当も解けると、非常に人生を楽観的に捉えている人。
若旦那にもこの空気が流れ込んだ。もともと本人が持っていた資質なのだろうが、貧乏親子に売上をくれてしまう。
別の噺についてだが、こんなものかつて書いた。利他について。
というわけで、いい人情噺をしっかり聴けて満足です。
入船亭遊京はいい噺家ですし、阿佐ヶ谷はいい街です。
阿佐ヶ谷をよろしく。