落語をなぜ聴くかというのは、実のところ大変深いテーマである。
聴いていると中毒になるが、では、なぜ好んで中毒になりたがるのか。その答えは意外と難しい。
すでに、ある程度はこちらの記事において迫ってみた。
もともとは「落語 つまらない」検索を拾おうと思ったもの。目論見は成功している。
検索するのはきっと、お笑い好きであろう。
お笑いの頂点に立つ人も一目置く、お笑いのラスボス的な落語を聴いてみたら、全然理解できなかったのでは。
食いつけなかった自分を正当化するため、「落語なんて本当はつまらないもの」とネットに救いを求める層がいるわけである。
その需要を拾い、真っ向から反論するのではなく、たしなめたいと思ったのだ。
私もそうだが、子供の頃から落語を聴く習慣を持っていると、「なぜ聴くか」は意外と考えない。
落語は面白いに決まっているからだ。
100%面白いということはないが、自分の感性に合わないものを聴いたとして、落語自体に責任を背負わせるようなことはしない。
まあ、落語好きでもたくさんいるんですが。「あんな奴を聴くから嫌いになるんだ」って言う人。
ほっときなさい。
さてかように、お笑いのほうから落語に入ってこようとすると、ずっこけることがある。
こういう人も、「お笑い基準」から一度外れてしまえば、全然フラットに落語が聴けるのだと思うのだけども。
そもそもだ。芝居好きな人なら、落語にやってきても、お笑い好きのように戸惑うことはないだろう。落語のドラマを芝居として楽しむ能力がすでに備わっているから。
この点お笑い好きだったとしても、コント派なら、わりと落語を理解しやすいのではないか。
コントのほうが落語よりキャラやシチュエーションの掘り下げは深いかもしれないが。でも古典落語を聴いて「浅い」とは感じないと思う。
新作落語ならさらにOK。
ともかく、現在のお笑いのレベルはとてつもなく高い。
私もお笑いを観るときは、高いレベルに圧倒されつつ楽しむ。
その感想は、落語を聴くときになんら妨げにはならない。現に日々、落語の高座に圧倒され続けているではないか。
笑いの少ない人情噺で圧倒されるだけではなく、滑稽噺でも。
ともかくも、落語の笑いについては、しっかり考える余地がある。
こんなことを日頃からつらつら考えていたら、ある仮説が生まれてきた。
【笑いとは】
- 笑いには、ギャグとユーモアがある
- ギャグとユーモアの違いは、卑俗と高尚ではない
- ギャグとユーモアの違いは、作為と自然ではない
- 現代のお笑いは、ギャグを徹底追求している
- 落語の笑いは、昔も今もユーモア主体
- ギャグを強調する落語は、古典も新作も昔から異端視される傾向あり
【ギャグとは】
- ギャグは、客の感情を弾けさせる強烈な存在
- 高尚なギャグも、卑俗なギャグもある
- ギャグは、必ず反動を伴う
- ギャグを、重ねていくたび、その舞台への反作用も大きくなる
【ユーモアとは】
- ユーモアは、客にゆっくり浸み込む
- ユーモアは、反動を伴わない
- ユーモアは、無限に積み重ねていくことが可能
- ユーモアは、溢れてもゆっくり流れていく(反作用はない)
一応は私がすべて考え抜いたものではあるが、完全なるオリジナルだと主張するつもりはない。
笑いについて常に考える人なら、どこかで目にしたことがあるかも。
とりあえずこうやって、ギャグとユーモアとを比較してみた。
お笑い界を基準に置いたとき、ユーモアとは古臭く、価値の乏しいものに見えるのではないか。ユーモアと感じる前に「シュール」と解釈したりなんかして。
実際、落語というものは、現代のお笑いに入っているギャグより、歴史が古いのである。
落語にも、お笑いの影響でギャグが持ち込まれて久しい。
「爆笑派」と呼ばれる人たちがやるのは、ギャグ多めの落語ということなのだろう。
故人だが、橘家圓蔵など。
さて今でも、落語界だけを独立させて見てみれば、ギャグが上で、ユーモアが下、そんな関係性はどこにもないのであった。
笑いの要素についていえば、ユーモアだけで、落語の世界では天下が取れる。ギャグは妨げになることだって。
たとえば、五街道雲助師。師に「ギャグ」を感じますか?
師がギャグを取り入れていないわけではないと思うが、全編を覆い尽くすのはユーモアの塊。
ユーモアとは、余裕。人情噺にも漂うもの。
爆笑派についてはどうか。ギャグの要素が強い人もいる。
昔昔亭桃太郎師など、そう。
だが、師の落語は表面的にはギャグまみれであるものの、一席の感想は必ずしもそうでもない。
最初出逢った頃に爆笑して疲れてしまった人も、聴き続ければいずれクスクスし続けるようになり、そしてどんどんリラックスしてくると思う。
落語の場合、爆笑派すら実はユーモアの要素が意外なぐらい強いのである。