柳家喬太郎師であるとか、今をときめく春風亭一之輔師であるとか、こういった師匠の高座には一見「ギャグ」が目立つ。
ギャグの存在自体が、噺の骨格を揺すぶり、客に感動を与える。
だがギャグの要素において、本気でお笑いと対抗しようとは思っていないはず。戦いを挑む価値も乏しい。
そして両師とも、やりすぎると落語の世界においてはたちまちバランスを崩すことを熟知している。爆笑マクラも、全体の構成の中で活かさなければならない。
ではどうするのか。とっておきのギャグを、噺にユーモアを盛り込む手段として用いる。
ギャグのためのギャグでない。ユーモア強化のためのギャグ。
それでもやはり、やりすぎると世界が壊れる。落語の世界は本質的に強いギャグは向かない。
「クスグリ」とはいい用語である。まさにくすぐるように笑いを入れる。
こういう仕事が確立していると、今度はギャグを抜いてもユーモアが残る。
3日前に取り上げた喬太郎師の「普段の袴」など、まさにこれ。
でもギャグに着目している人は、ギャグが入っていないので寂しい思いをすることも。なに、まだ慣れていないだけですよ。
一之輔師に関しては、人情噺まで行かず、こんな作品でどうか。
立川談志は、落語を愛しすぎるがゆえに、既存の落語の世界観を揺すぶり続けた。
その価値はともかくとして、揺すぶり続けるのはギャグの特質。笑いの観点から言うと、本流にはなり得ない。
昨日チラっと名を出した橘家圓蔵は、落語の歴史からすると異端でありつつ、しかし実は確かな技術に裏打ちされている。
ギャグ多めだが、結局はユーモアのかさ上げに貢献していたように思う。
最近私がイチオシの二ツ目、柳家小ふねさんも、「ギャグを使ってユーモアを強化する」手法である。
だからかなり面白いのに、疲れない。
疲れる人もいる。面白くて疲れるのならまだいいのだが、単に疲れるという。
先日、落語界全体のこの人いじりを批判したばかりなので言いづらいのだが、林家三平師。
ギャグ(さして面白くない)を乱れ撃ちしてくるだけで、いつまで経っても高座にユーモアが溢れないのだよな。
笑点視聴者に違和感を与え続けたのも、結局この部分だと思う。
爆笑派とされる人も、結局最終的にはユーモアを強化しているのであった。
これが落語の作法。お笑いとは異なる。
そしてユーモアは、ギャグと違い無限にかさ上げしていいものだと気づいた。溢れてしまっても構わない。
ギャグは富士山の噴火だが、ユーモアはキラウェア火山のように、ゆっくり溶岩が溢れていき、地を埋め尽くす。
さて、ユーモアについて考え出したのは、女流落語について思うところがあったのもきっかけ。
お笑いの世界に、女性はまだまだ少ない。
強烈なギャグをぶっこむお笑い界において、女性はどう立ち向かっていくべきか、まだ正解はない。
しゃべくり漫才に定評のある女性コンビもいるが、コントの世界においてようやく風穴が開いてきた感がある。
ヨネダ2000とか、天才ピアニストとか。男のコンビよりギャグの多いヨネダ2000は適当な例ではないけども。
落語の世界に関しては、ギャグは別に狙わなくていいことをすでに見てきた。本来的な要素ではない。
講談界に比べて女性の進出が遅れた落語界だが、本当は女性が向いているギョーカイなのではないか。私はそう思っている。
現状、師匠側の女流落語家育成メソッドにおいて課題が多いけども、それは本質ではない。
男の師匠の成功例を見たときに思うのだが、女性も「ユーモア」でもって勝ち抜いていけないものか?高座にユーモアを生み出せばそれで成功の気がする。
悪いのだが現状、何を目指しているのかわからない女流落語家も多い気がしてならない。「中途半端なギャグ」と「中途半端なユーモア」である。
抜擢の決まった林家つる子さんレベルまで振り切れば、ギャグも成り立っているとは思うけども。
ただ、このやり方もなかなかしんどいな。だから芝浜の改作とか、別路線に力を入れているのでしょう。
柳亭こみち師は古典落語を女流目線に変えることで、かなり成功している人。
浅草お茶の間寄席で出した「庭蟹」(今、落語協会で流行っている「洒落番頭」の別題)では、主人公を番頭さんから女中のお清に変えていた。
その際こみち師、「女性は男性と違ってシャレのわかる人が多い」というセリフを入れていた。
オヤと思ったが、確かにその通りである。
こみち師のようにはっきり指摘することは少ないが、女性のほうがユーモア指数が高い。私も賛同する。
なのに実際にはなぜ、ユーモア溢れる高座を務める女流が少ないのだろうか。
ただ、大きな成功例が出ている。
今をときめく桂二葉さんは、ギャグのセンスも高いけども最終的にはユーモアのかさ上げに成功している気がする。
高座全体が冗談みたいだ。
特に先日の「上方落語をきく会」でネタおろししていた「幽霊の辻」の婆さんの、人をおちょくった感じがたまらない。
彼女は「女流」を意識しないでやっていくと宣言している。
それはそれでいいのだが、彼女の活躍を、「男性のようにやればいい」と解釈するのも違うと思うのだ。
こみち師が指摘するような、女性自体が持つ高いユーモアを、もっと落語に活かせないものだろうか。
これからいろんな人が出てくるとは思います。またいずれこの件を。