続いて柳家小はぜさん。ボウズ連続。
この時季はボウズは大変ですとのこと。
この人は町田が地元らしい。なるほどよく鶴川ポプリホールで会をやっている。
昨年は2回聴いた。1年振り。
「人形買い」を絶賛し、その後池袋で聴いた「かぼちゃ屋」の、おじさんが厳しすぎて残念と書いている。
ただ、悪いほうのダメージはさほど残っていなくて、今日の一番の期待。
自分のマクラはなに話してたかな。謝楽祭の話は先の圭花さんだったか。
早々に医者の話。
医者の頭に雀がとまる とまるはずだよ藪だもの
藪医者小噺を振って、夏の医者へ。
この季節の好きな噺。珍品とまでもいえないが、そんなに聴けるものではない。
過去2回聴いたのはいずれも柳家だった。先に出た圭花さんから2020年に、そしてさん助師から2022年に(小はぜさんを最後に聴いた芝居)。
小はぜさんも含めて全員柳家なのに、全員中身が結構違っている。どんな噺なんだ。
ストーリー展開と、うわばみに飲み込まれるという噺の肝は一緒なのだけど、細部がかなり違うのであった。
先に聴いた二人の場合、急いでいるから迂回せずに山越えしてくるのだ。そこでうわばみに遭うことになる。
小はぜさんの場合、隣村から山をみっつ越してやってくる。
そして、うわばみの体内から吐き出された直後に、もう一度飲んでくれろと交渉している。患者がどうなったかは不明のまま。
小はぜさんの描く夏の医者、患者のその後は描かれないのだが、倒れた後の看病も気になる。
倒れたとっつぁまの弟だか兄だかが、日陰に移したりもせず見守ってるんだって。
違いはこれぐらいで、骨格は一緒。私の元来の認識では、小はぜさんのが本道な気がする。
若手なのに常に落ち着いた小はぜさん、といっても若々しさを失っているわけではないのだが。
ともかく、夏の医者には小はぜさんの落ち着きのほうが強く出てくる。
医者の先生はとにかく急がない。
まず腹ごしらえから。呼びに来た息子は気が気じゃないが。
落ち着いている理由はなかなか哲学的だ。医者が行ったとて、寿命ならどうしようもない。
それより、山をみっつも越える以上、自分の腹ごしらえのほうが重要だ。暑い日に、自分が参ってしまってはなんにもならない。
ただし、息子が急いでいるのに配慮し、シャケを焼くのは我慢して、茶漬けだけかっこむ。
息子の慌てぶりと対比させる方法論もあるだろうけど、そんなやり方ではない。
徹底して落ち着いた医者の先生に、田舎ののんびりした風情が湧いてくる。
山をふたつ越えてから、息子が「道間違えたかもしんねえ。こんな木はなかっただ」と。
ここでうわばみが登場するが、大木のごとく道をふさいでいる。乗り越えると、いきなり日が暮れる。うわばみの腹の中。
ここからの先生の究極の落ち着きぶりが、小はぜさんの本領発揮。
落語の客は普通、息子のほうに共感する。
先生の落ち着きぶりは、客をもなだめているのだった。
じっくり一服つけて、息子に語り掛ける。西瓜の具合はどうだんべ。
体が溶けると気が気でない息子をよそに、一服つけたおかげで先生は見事正解を出す。
下剤を取り出し、息子に撒けと。先生は、胃壁に直接薬を塗り付ける。
無事、くそと一緒に脱出成功。
息子も喜んで、これからはうわばみに呑まれるときはお医者の先生と一緒にすべえ。
このあと薬篭がないことにすぐ気づく先生は、息子に取りにいかそうとするが、息子はもうこりごり。
それに先生、薬篭見つかっても、おらはどれが下剤かわかんねえだよ。間違って下痢止め撒いたらおら終わりだがね。
というわけで、医者の先生自ら取りに行く。この辺り理屈が通っている。
いや、古典落語って楽しいなと改めて思わせてくれる一席。
そして、この日最後の古典落語にして、一番のデキだった。
そもそもこんな新作、頭で考えて作れないものな。
ちなみに患者がひっくり返るまでのいきさつを息子から聴いた先生、前日の残りの「チシャ」を「レタスじゃからな」と客にわかりやすく説明していたので驚いた。
仲入り休憩時は、生田寄席と同様コーヒーの無料サービス。
アイスティーもあったそうだが早速品切れ。
暑い外で飲むホットコーヒーはオツなものでした。