五十歩百歩 その3(三題噺、新作落語にご用心)

仲入り後は会の主宰者である(たぶん)市若さん。
落語協会の二ツ目でもとびきりユニークな人だ。市馬門下に現れた異端児でもある。
昨年の小せん師の会で、小せん師に上がれと言ってもらえたのだろう、メクリもなく上がって「風の神送り」という東京ではまずやらない古典を掛けていた。
その後、今年になって黒門亭で初天神を聴いている。

なんの説明もないのだけど、この会のお客さんはわかってるのだろう。
オープニングトークで獲ったお題を、ここで三題噺として出すということはわかったが。
ただしその前に、前回の宿題の三題噺がありますとのこと。作って来たそうでこちらから。
「Wブッキング」「五十歩百歩」「こけし」という三題。

これが、まんま初天神の改作で。
面白かったけど、改作じゃ三題噺の意味ないじゃないだろうよ。
そもそも市若さんの楽しい初天神、二度聴いたがこれ自体すでに改作といえそうなもの。
それを、三題噺つまり新作に当てはめるという、もうなんだかわからない方法論。

お題に入っていない「音楽フェス」が隠れテーマ。だから四題噺だ。
親父と小学生の息子がフェスに出かける。息子はストーンズのTシャツとかいろいろ欲しいものがあるのだが、あらかじめ買わないと約束させられている。
とはいえ小腹が空いたのでつくね串を食わせてもらう。
タレですか塩ですか。
お前、子供にやるんだよ、タレなんて服汚すからダメだ、塩だ塩。
あたいタレが食いたい。

面白いのは確かだ。
今日お題をもらった三題噺も考えたんですが、あまり笑いがありません。なので宿題のほうから掛けましたとのこと。
そして本日の即席三題噺へ。「新盆」「パン」「箱根の森」

箱根に蟄居した元敏腕新聞記者の新盆で、後輩が未亡人を訪ねてくる。
しんみりした噺に仕上げてきた。1時間程度しかなかったのに立派なものだ。
とはいうものの、なにひとつ覚えていない。ストーリーすら。
寝ていたわけでもないし、退屈もしてないのに。まあ、新作の場合そういうこともある。

この連載、4回続けるつもりだったのだが、今日で終わってしまいます。構成のミスだ。

トリは春風一刀さん。
「名前が一刀なだけに…今日は…真剣にやります。タメてみました」
なんと長講。50分ぐらいやっていた。一席終わって、足がしびれて立ち上がれない。
20分ぐらいマクラ。30分ぐらいで新作落語「恋する惑星」。
「惑星」はなんにも関係ない。

シブラクのために作ったんだそうだ。
たまにしかお見掛けしない一刀さん、二ツ目昇進直後は笑い多めの本格派だという認識だったのだが、どんどん崩れていったみたい。
新作やるなんて知らない。

前半のマクラは爆笑だった。
春風亭だけど春は嫌い。花粉症だから。
そして、今恋しちゃってるんだよね、とタメ口で語り続ける。このスタイルも楽しい。
一刀さんのイメージが激変した。
実際に、合コンで出逢った彼女と今デートを繰り返していい仲だというのろけ話をひたすら語る。
のろけ話なんてドスベリしそうに思うが、ちゃんと演者が「のろけていい気になっちゃってるボク」を高座上空から俯瞰しているので大丈夫。
2対2の合コンをセッティングしてくれたのは柳家緑助さんだそうだ。
彼女は慶応を出ている才女で、カワイイ。しかも落語好きで、自分でも演じる。芸協しか聴かないんだって。
女の子がひとり帰り、先輩としての圧力で察しの悪い緑助を帰して三次会へ。
ハマスタでの野球デートから、中華街の昼食。語らなかったがなにげに一泊してるんだな。
こんなのがブログ記事になって実在の彼女がどう思うかは知らないが、忖度して書かないのも変だ。

この楽しく、特殊な語り口の漫談で締めるのかなと。
それで、全然よかったのに。

しかし噺に入る。彼女と付き合う前に作った噺ですが、なんだか予言してたみたいですと。

二日酔いの彼氏。昨日彼女と別れた後ひとりで飲んでいた武勇伝を語る。
彼女は机の上にゼクシィを載せている。

ああ、この作品は、ダメだ。
落語協会の台本募集に落ちてる程度の素人が、新作落語づくりを評していいものか。
いや、むしろ私にしかできないと思う。入選した作家がプロの新作を批判するなんて絶対ないわけで。
同業者だってアドバイスはするにしても、ダメ出しなんてしない。
だから私が言うのだが、この「恋する惑星」は、新作の文法で書かれていない。
新作落語家は、みな新作の文法を身に着けるのだ。基礎の文法があってこそ、それを崩すこともできる。

前半の回想、武勇伝のくだりは悪くなかった。ナンパに励むメキシコ人とテキーラ飲み比べ対決で勝ったという。
そして、飲み方は試し酒スタイル。

だが彼女が結婚を匂わせてきたあたりから、物語は停滞する。
新作落語で、特に東京で最も重要なものはなにか。私は日ごろから書いてるのだが、「飛躍」である。
この落語は飛躍をしない。前半には多少あったのに。

飛躍の代わりに入れるのが、ギャグ。
ああ、今年クスグリ多めの「鈴ヶ森」を聴いて、ギャグに取りつかれた人なのだと認識したところだった。
とにかくギャグを噺の骨格にしようとする。
鈴ヶ森はクスグリ過剰とは思いつつも、まだ面白くはあった。
だがストーリーがどこへ行くかわからない新作において、飛躍を入れずギャグをたっぷり入れる。これはしんどい。

古典落語における甚兵衛さんとおかみさんの会話でも念頭にあるのだろうか。
しかしあんなのだって、決してギャグで噺が動いていくわけじゃない。

新作やるのはちっとも悪いことじゃない。新作のほうでモノにならなくても、そこで培った創作力は古典に必ず生きる。
でもやるんだったら、ちゃんと文法を守って始めて欲しいもんだな。
めったに新作作らない兄弟子・一之輔師も、ちゃんと新作の文法に合った作品を仕上げる。

古典派の噺家が、新作でもやってみるかと始めることはあるものだ、真打でも。
でも文法を守らないと、しんどい。
以前三遊亭歌武蔵師が珍しく新作を作り、落語研究会でも出していた。前半部分だけ別のタイトルを付け、演芸図鑑でもやっていた。
決して悪いものではなかったし、特に独立させた前半は見事。
それこそ喬太郎師などから、創作のアドバイスももらっているだろう。
だが、やはりなかなかしんどい作品だった。飛躍はあったけど、入れ方が。
同じ日の収録で、権太楼師がその作品を「いつ終わるんだ」と揶揄していた。

一刀さんの飛びぬけた面白さ、そして真逆の要素の両方を知った日でした。
批判書いちゃったからこの会、もう次は来づらい。
今後はバラバラに聴いていきます。
小はぜさんは鶴川で聴きたい。

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作成者: でっち定吉

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