DHとCSと、落語界協会統一論議を重ね合わせていろいろ考える

今日の話題は、落語メインではない。
それでも結論に落語の話を持ってこようと思っていたのだけど、野球に興味のない人もいるだろうから落語の結論は先に出しちゃおう。
それから、野球の話をゆっくりしようと思う。

セ・リーグのDH制議論がまた賑やかになってきた。
…あれ、野球かよ。まあ、待ってくださいな。
MLBナショナルリーグまで今やDH制だから、避けて通れる話題ではない。特にメジャーのルールをすぐ遅れて導入する日本のことだから。
合理的に考えるなら、もはやDHこそ世界標準であり、導入しない理屈はない。
「DHがないからセ・リーグは弱い」という議論は、セの復権とともにどこかに消えたけども、それでもファンも合理的に考えてDH制導入をわりと支持しているようだ。
理屈としては、「打てないピッチャーに打たすな」をはじめ、いくらでもある。

だがここにきて阪神岡田監督などが、「投手が打席に立つべき理由」を述べだしている。
監督の仕事は、まさに投手にいつ代打を出していくかに掛かっているのだ。
なかなか面白いなと思っている。「野球は9人でやるもの」みたいな屁のような感情論より、ずっと理屈が通っている。
理屈には理屈で対抗しなくちゃならない。どちらがより妥当かというのはあるにせよ。

ようやく落語の話。
円楽師が亡くなり協会統一論議は下火になった。もともと、お題目しか唱えておらずビジョンのない話だったから、当然だと思う。
統一論議には「一緒にやるべき」という「べき」が付いている。だが、そのべき、実に底が浅い。
最近、芸協の昇太会長も、落語協会の市馬会長も、「協会が複数あるべき理由」を考え続けているように思うのだ。
岡田監督と同じで、感情論に流されるよりずっとよろしい。
もともと二つの協会は敵ではない。現在のセ・パ両リーグと同じ。
野球のほうも今や、審判も公式記録員も一枚岩。リーグだけ「あえて分けて」やる格好となっている。
分けているほうが楽しいからにほかならない。
同じ野球の枠組みの中で、異なるルールでやっているのもいいなと、DHについても最近認識するようになった。
DHがあれば活かせる選手がセにいれば、トレードに出すのが正解。
セもパも、落協も芸協も、土台はひとつであって、ただその中で役割を分けているのだ。

落語界、もともとひとつになるなら、なればぐらいの意識でいた落語ファンの私も、考えを変えてきた。
最近では、「ひとつになるべき強い理由」がない限りは現状のほうが望ましいと考えている。
落語協会主導で統一したら、これはでかいばかりで暗い組織になる。パワハラ事件を見ていればご納得いただけるはず。
芸協は芸協で、いささか軽すぎる。でも、両立していることで、バランスを取っていると私は考えている。

最近では、落語界の孤児円楽党も、このままでいいんじゃないかと思うようになってきた。
円楽党はすでに芸協の関連団体みたいになってきている。だからこの際吸収してもらっても(円楽党のもともとの望み)いいのだけども、どう考えても強い必要性がない気がする。
現在の両国、亀戸2拠点体制でやっている円楽党、なかなか安定していると思うのだ。力も着実に伸びてきているし。

立川流はアンタッチャブル。
それでも、11月からふたつ寄席を始めることで、このはぐれ組織も結局落語界の大きな組織の一翼を担っていっている。

今日の落語の話はおおむね終わり。
あとは書きたくて書く野球のネタ。

昨夜のクライマックスシリーズ、ロッテvs.ソフトバンク戦は実になんとも、しびれました。
戦前は、ソフトバンクが抜けるのではないかと思っていた。
さすが短期決戦慣れしているSB、第1戦で佐々木朗希とやり合うことをあえて避け、2・3戦を獲りにいくことを最初から狙っていたのだろう。
それがハマったと思ったが。10回裏3点差をひっくり返すとは、一寸先は闇。

つくづく野球って面白いなと。
ちなみに若者はもう野球なんかに興味がないだろうと思っていると、そうでもない。
2年前まで私が野球観てるとチャンネル替えていたうちの坊主が、熱心に観るようになった。面白いものだ。
親父の影響ではなくて、学校で野球好きから刺激を受けたらしい。
もともと凝り性の息子なので、先に覚えた競馬と同じように、体系的に網羅したくなるようだ。
競馬と同じく、ゴシップをやたら知っているのはいかがかと思うが。

クライマックスシリーズの激戦で、特にロッテはお得意の「下剋上」をキーワードにオリックスにぶち当たるのだろう。
でもたぶん、アッサリ負けると思う。
だからといって、昨日の激戦に意味がないか。そうは思わない。
クライマックスシリーズは、瓦解させないためには2位以下の勝ち抜けは10年に1~2回が望ましい。
プレーオフの楽しい枠組みを維持するために頑張って勝ち抜き、そして優勝チームに敗れさるのが役割ではないかな。

最近また、クライマックスシリーズ議論が賑やかだ。
今年みたいにゲーム差が開くと特に、不要論がかまびすしい。
しかし「優勝したチームしか日本シリーズに出るべきではない」のべき論も、DH制における「野球は9人」と同程度にウザい。
クライマックスシリーズの果たした、「消化試合の一掃」「2位チームにたんまりカネが入る」「ファンがいつまでも楽しめる」を黙殺するのはどうなのか。
だいたい、最終戦の楽天vs.ロッテがあって、CSがある。ソフトバンクだって、楽天が勝って2位だったら、戦略からなにからだいぶ違っていた。
優勝チームに関するべき論は、これらの産物よりでかいか? 絶対にないと思う。

あたかも、落語における「本寸法第一主義」「古典落語絶対主義」みたいな、芯の薄さを感じるべき論。
クライマックスシリーズがベストの方式とは言わない。
でも、かなりよくできている。毎年このシーズンになると、アドバンテージ1勝の絶妙さも含めて、ここまでよくできた制度を作ったNPBに感心してならないのである。

また話は変わる。
野球のネタなんて、いつも出すわけじゃないからまとめて出しちゃおう。
シーズン初期にこんな記事を書いた。

藤浪晋太郎叩きに林家三平を重ね合わせる

そこそこアクセスは多かった。
藤浪が失敗して帰ってくる(当時はみんなそう思っていた)として、「性格のおかげで成功できなかった」という論評はやめて欲しいなというのが私の願いだった。
その後藤浪が奇跡の成績を収めた今、当時性格面から藤浪を叩いていた人たちはどう思っているのだろうか。
どう思っているか想像もつかないのだが、「俺が間違っていた」という反省も、人としては持ってほしい気がする。
もちろん、「今だけだ。来年はダメだろう」と思うのは、それはそれでいいけど。

そう思ったら、新たなターゲットがいた。
楽天から自由契約の西川遥輝である。この人もまた、性格面を常に言われる人。
「肩が弱くて打てないからダメ」では納得できないらしく、やたらと性格面を非難される。
まあ、プロ野球オレガオレガ選手にも、歴史がありますからね。中村ノリとか、昨年の山口俊とか。
そして残らずMLBを目指すという共通点がある。
しかし全員、「もう力がない」でいい気はするのだけれど。「力はないけど」の「けど」を付けてもらえない程度の差。
そして三平もまた「ヘタ」でいいのです。努力が足りないとかは、大きなお世話。

ちなみに、野球の枠組みについては私は保守派なのかというと、さにあらず。
「タイブレーク」なんて大好き。
さらに言うなら、野球自体6イニング制でやればいいと思っているぐらいの過激派。
過激派だけど、世間に対し「野球は6イニングですべき」なんてトンチキなべき論を振り回したりしない。

DHとCSに伴う正義の対立から、世間一般に話を拡大することもできるが、やめておきます。もう普段の倍近く書いちゃったし。

明日水曜日は出かけるつもりですが、行き先に迷っています。
また午後にレビューします。

作成者: でっち定吉

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