昨日に続き、立川吉笑さんの「乙の中の甲」。
吉笑さんは、相変わらず語り口がスピーディ。
スピーディな語りで高揚感を狙っているというよりも、情報量の多さにいつも感心する。
情報量が多いのに、ちゃんと語りつくし、客にわからせている。
今回の「乙の中の甲」みたいな複雑な作りの噺といえば、笑福亭羽光師が得意にしている。
羽光師は、状況を混乱させていってその混乱さを楽しむところがあるが、吉笑さんは、複雑にしていくその構造を、ちゃんとわかるように届ける。
ただ、中学生以下だとわからないかもしれない。これは先日、中学生の前で羽光師の掛けた「俳優」という複雑な落語を聴いて感じたところ。
大人なら、よほど鈍い人でない限りは楽しめるだろう。実際、スタジオフォーに集結したお年寄りたちは大爆笑であった。
図にしてみたが、手間掛けた割に、だからどうしたなのだけど。
熊さんに借りたカネを返さない八っつぁん、俺の中の熊に訊いてくるといって、会いにいく。
おーい熊、いるか。なんだ八じゃねえか。お前は貸したカネを返せなんて言わねえよな。ああ言わねえよ、それどころか倍にして渡してやる。
ちゃんとカミシモ振って、八っつぁんが脳内熊さんを訪ねていく。
そんなシーンが続いて、これ、なんなんだと声を上げるリアル熊さん。
中学生以下はわからないだろうというのはこのあたり。
八っつぁんが脳内熊さんを訪ねていくのは、噺の中の現実なのか、リアル八っつぁんの脳内の話なのか、詳しいところはまるでわからない。
わからなければ不安になるかも。
ただ、落語ファンというものはそんなのを許してしまうのだ。許したうえで、演者の意図に共感して爆笑する。
古典設定(いわゆる、擬古典落語)にしているのも上手い。羽光師がやるように、現代の設定でもいいのだけど、古典の世界に入れ込むことで約束事の説明をする必要がなくなる。
江戸っ子は宵越しのゼニを持たねえとか、本当にカネを返せって言わなそうとか。
そういう共通認識の上に、メタ落語を構築する、離れワザ。
現代のあたま山。現実を拡張するメタバース落語。
どんぶり鉢のあんこのたとえで納得しそうになる、貸主の熊さん。
面白いのは、八っつぁんのほうは、別に熊さんをケムに巻いてやろうというのではないらしい。マジみたい。
しかし熊さんも思いついて逆襲する。
俺の中の八は、借りたカネを返さない奴じゃない。だから今から行って訊いてみる。
だが、熊さんが脳内八っつぁんを訪ねても、なぜか八の野郎は留守にしている。あんたの匙加減だろうに。
そしてなぜか、謎の番頭さんがいて、熊さんか、札付きの八の野郎なんかと付き合ってちゃいけないよ、あんたはまともな人なんだから。
羽光落語だと、演者が混沌さを増してくるのでそろそろわからなくなってくる(覚えておけなくなる)。
いっぽう、吉笑落語だと、この先もちゃんと覚えている。猛スピードで情報量の多い説明が、見事なプレゼンになっているのだ。
なぜか脳内八っつぁんはいないので、リアル八っつぁんが言う。なら、俺の頭の中の熊の頭の中の俺に訊いてみよう。俺の頭の中の熊に、熊の頭の中の八に訊いてくれるよう頼んでみる。
なんだそれはと熊さん絶叫。
さらに、饅頭をあんこでくるんでその上に饅頭の皮をかぶせた二重饅頭のたとえを持ち出す八っつぁん。
この饅頭の皮の下のあんこと、あんこの中に包まれた饅頭の中のあんこは違うものか?
再度、脳内八っつぁんを尋ねにいく熊さん。
またも番頭さんにたしなめられる。やはり八っつぁんはいない。
それから、謎のしんみりしたシーンがしばらく続く。
ちょっとほろっとしかけたところで全部ぶち壊される。なにしろ熊さんの脳内の話なんだから。
インテリ吉笑さんは、本当に頭がおかしくなってしまった。
おかしくなった頭の世界に、我々善良な客を連れていってしまう、非常に危険な人である。
こんな人を追いかけると、狂った脳内に閉じ込められそうだ。
閉じ込められてみたい。
吉笑さん、当ブログでもずいぶん取り上げている。
だから大ファンなのかというと、なにかしら違う感もいつも持っている。
いい面はわりと言語化しやすいのだが、気に入らない面が自分でも説明できないところがある。
だが今回のメタ落語を聴いて、私の脳内が弾けた。
定吉脳内の吉笑さんとピタッと合うかなど、どうでもいい。
定吉の外の世界にいるリアル吉笑さんの、発想力や話術、情報量の多さを味わえばいいではないか。
渋谷らくごとか最先端の場に出ていかなくても、巣鴨でこうやって新作落語の最先端を味わえるのであった。
この日の3人は最高でした。
マクラで楽しみ、メタ構造で楽しみ。
落語好きでよかったなと思うのです。