落語で笑うことなどそもそもない気がする

志らく師匠は、M-1の審査員を意に反し降ろされたと思うのだ。
伯山がからかってなくても、それが事実でしょう。
志らく嫌いの私だが、別にこの件でざまみろなんて思ってないですよ。5年もやったんだから。
そんなことより、なんで「勇退」というタテマエをありがたく背負わせてもらっているのか、よくわからない。それじゃあなたが馬鹿にしてる三平と同じじゃん。
後で裏話として披露するつもりかもしれないが、ひとまず「クビになった」と騒いでみせるほうが、らしいと思うのだが。

M-1はお笑いの最高峰。日本中が楽しむ。
頂上漫才を楽しむ人はしばしば、落語なんてつまらん、ダサいと思っているものだ。
なんで落語家が、偉そうに笑いを語るんだなんて人もまた多い。

落語なんて確かに、そんなに笑えるもんじゃないよねと同意する。
なので私は、落語を代表して怒ったりはしない。
そもそも初心者に対する、「寄席で笑おう」なんて標語にもピンとこないぐらいだ。

とはいうものの落語も、初心者の頃は新鮮で、結構笑えるのではないでしょうか。漫才とどちらがより笑えるかなんて議論はさておき。
初めての寄席の感想が、「落語って難しいかと思ってたけど、笑った笑った」なんて、ごく普通じゃないだろうか。
ところが、通ううちに笑わなくなってくる。
ただいっぽうで、満足度はどんどん高くなる。この不思議な反比例。

噺を知ってしまうことで、笑いが減るのは仕方ないこと。
毎回噺を初めて聴くようなわけにはいかない。
古典落語だけでなく、新作だってやがてこんなパターンにはまってしまう。
それでも聴き続けるのは、反比例する楽しみがあるからこそだが。

「落語 つまらない」という検索ワードは健在。
ひとつこれをつかまえてみようと思い、ブログ記事を書いた。
現在Yahoo!知恵袋に次いで、2位である。
「落語 笑えない」「落語 面白くない」でもヒットします。

「落語 つまらない」は、聴いて楽しめなかった自分自身を肯定するための検索ワードだと思うのだけど。
それでも、「ああ、つまらないと思っている部分に楽しみを見出している人もいるのだな」ぐらいに思ってもらえれば、いいのです。

今年、いちばん笑った席があった。

六人廻し(中・笑福亭希光「ちりとてちん」)

ひらい圓蔵亭という東京の外れ、6人の客の席がベスト爆笑。
笑いすぎて疲れた。
だが、この席の内容が今年ベストだったというわけではない。「ひたすら笑った」という事実があるだけである。
笑いの中身は、楽屋ネタでもあった(小南師のモノマネ)。
楽屋ネタは、ディープな落語ファンを笑わせるもので、実のところ卑怯この上ない。

ここまで笑いの量が多い席がしょっちゅうあっても、出向く目的にはならないことがよくわかる。
毎回バカ笑いしていたら、くたびれてしまってたびたびは通えない。

反対に、日曜に行った墨亭の柳家小平太師なんて、くすっと来るのが二三あった程度。笑いはないといっていい。
満足度は、笑いの量ではまったく測れない。

だいたい、最も好きな柳家喬太郎師にだって、笑いを求めていない。あんなに面白いのに。
先日、小ゑんハンダ付け、円丈作品集では「稲葉さんの大冒険」を掛けていた。だが本当は「わからない」が聴きたかったのだ。
夏に鈴本でやってた「オモクラ喬太郎」に出向いた方ならおわかりいただけるでしょう。私は行ってないんだけど。

今日のこの記事は、「落語の面白さは奥が深いよ」を語ろうとしているはずなのだが、単に「落語が好きな人は性格がややこしいよ」になっていたらどうしよう。
まあ、両方事実かもしれないけども。

東京かわら版で行きたい会をチェックする際、「この人に笑わせてもらおう」とは思っていない。
もちろん、楽しめそうだとは思っているのだが、笑いは想定していない。
少なくとも、なんらかの刺激は求めているはずだ。
恐らく、刺激を求めて出向いて、想定を超える刺激を受けたときには非常に満足して帰る。刺激が足りないと、ややガッカリして帰る。
そういうことだ。
刺激ってなに?
「落語 つまらない」で引っ掛かる記事では「脳への電気信号」と書いたが、それで答えになっているかどうか。
もっとよく考えれば、わかりやすい回答を見つけられるかもしれない。
でも、わからないのもいいかもしれない。

作成者: でっち定吉

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