小平太師、54歳なんだ。もともと入門の遅かった人ではあるが、もっと若いように思っていた。
ただ、芸に老成した感はなく、若々しい。
そして小平太師、一門の誰にも似ていない。かつては師匠にそっくりとの評も多かったようだが、現在は似ているように思わない。
個性控えめに映るが、実はこれこそ強烈な個性。
「くがらく」のサイトに二ツ目さん若時代の記事があり、そこに小平太師に対する喬太郎師のコメントが書かれていた。
「お前は、『どうだ、俺は(落語)上手いだろう!』という感じで落語をやっていないのがいい」
こう言われて小平太師は嬉しかったらしい。
ああ、本当にそうだ。この前に出ていかなさを、今回しみじみ感じた。
「落語上手いだろう」の空気は、本当に上手い人は出さない。上手くなりたいと思っている人がしばしばアピールしがちだと思っている。
こう評するのが喬太郎師というのも面白い。ああ見えてキョン師はこういう気配に憧れているに違いない。
いっぽうで小平太師、ぐっと引くこともない。引くと客を引っ張り込めることがあるが、そういうスタイルでもない。
自然に、ただ高座の上で気配を消す。「消してやろう」ではなくて。
仲入り後はただちに噺に入る。柳田格之進。師匠譲りでしょう。
2016年にブログ始めて初の遭遇。それ以前もたぶん、寄席でもどこでも聴いてない。
わずかに筆を割いたのが、春風亭昇吉師のもの。これは珍しく褒めた。
大ネタってのは、有名でもこんなものだ。
小平太師、12月24日の駒込落語会で兄弟子・喬志郎とともに「柳田格之進リレー」をやるそうだ。リレーってどこで切るのだろう。
あるいはその後のエピソードでも新作で描こうというのだろうか。
小平太師、この大ネタを、やはり噺にのめりこんだりはせずしっかり語る。聴かせる力を持った人。
笑いは控えめ。もともと笑いの入る噺ではないが。
小僧さんが、柳田を迎えに来て連れ出せなかったらご飯抜きなので、泣き出す場面。
あとは、番頭が勝手に首を請け合う場面。主人の首まで道連れを約束する。
足したと感じたもの、削ったと感じたものがそれぞれある。
柳田格之進のサンプルを多く持ってるわけじゃないので、すべてが師の工夫かどうかはわからない。
もちろん、最終的にどう演出をするかは演者の仕事である。私はすべてを小平太師の工夫と理解した。
【足したもの】
- 柳田が万屋の家で日夜碁を打つ仲間になるまでには、ずいぶん手数が掛かっている。人の施しをよしとせず、商家に迷惑の掛かることも好まない柳田には、断る理由が無数にある
- 柳田と万屋との対局は、無言でおこなわれる。身の上話などいっさいしない
- 番頭が「注文を間違えまして」と断り、たびたび米俵や沢庵を持参する
【削ったもの】
- 番頭が柳田を追求する動機は深くは描かれない(忠義のためであろう。嫉妬心などは一切出てこない)
- 御番所に訴えて出ますと脅す番頭に、柳田が引き下がる理由は描かれない
- 病でボロボロになり吉原から宿下がりしてきた娘を、番頭が忠実に看病するくだりで終わる(その後結婚などという結末はない)
浪人の柳田と、質屋の主人は身分を超えて友情を結ぶ。
しかし、互いに身の上話をしているわけでないことが明確に語られている。
昵懇になってからもそうなのだ。
師が語っていたわけではないが、囲碁は別名「手談」という。対局で語れるし、互いの内面も知れるのだ。
碁の対局が心地いいのなら、二人は親友なのである。
万屋の番頭は、注文を間違えたと言ってはいろいろ持ってくる。
おやと思った。悲劇の原因になる番頭とは違う人なのかしらなんて。でも同一人物。
初めて柳田格之進を聴く体でいるなら、「番頭が忠義のために裏切った」ようにも見える。
番頭は柳田の清廉潔白振りを見て、思うところはなかったのだろうか。ちょっと不思議。
もしかすると、ここからさらに番頭の内心の葛藤を描く演出なんていうのもあり得るかもしれない。まあ、ややこしすぎるといいことはないけど。
そして、この番頭の動機は描かれない。ひたすら忠義である。
このほうが、主人を殺されないようかばう結末には近い。
柳田の、御番所に訴えられると困る理由も深くは描かれない。でも名誉を重んじることはわかっているから、だいたい理解できる。
万屋の主人は、番頭がつまらない口約束をしたことを知りつつ、柳田さまを探せと使用人に厳命する。
最初に柳田と遭遇したのは、当の番頭。彦根藩留守居役に復帰できた柳田に詫び、帰って主人に報告していると、当人が訪ねてくる。
身を売って50両作ってくれた娘は、吉原でボロボロになった。復帰の支度金で身請けしたが、口も利かなくなってしまった。
恨みをストレートに語る柳田は迫力がある。
そしてお互いをかばい合い、斬るなら私をと争う主従。演技のクサさなどかけらもなく、ストレートに人間の感情が飛び込んでくる。
碁盤斬りの後、番頭が必死で娘の世話をする。
ハッピーエンドで締めることをよしとしなかったのだろう。まあ、どことなく匂わせてはいたけど。
確かに碁盤は友情のあかし。これを首の替わりとはいえ叩っ斬ったのだ。単純にめでたしめでたしとはいくまい。
結末よりも、人間の感情をどう出すかがテーマみたい。
この噺は掘り下げると、「間の悪さ」が要所要所に垣間見える。
あのとき掛け軸の裏に50両を隠したりしなければ。
すぐ柳田を訪問した際、姿を隠していなければ。
いやいや。そもそも町人と親しく付き合ったりしなければ。
碁会所で万屋に会わなければ。いや、出かけたりしなければ。
ちょっとした悲劇が膨らんだ結果なのだった。でも、これが人生。
そんな元に戻らない人生を味わう噺でもある。
年末にズシリ来る噺でした。
小平太師は定期的に聴いていきたいものです。