なぜ落語好きなのに笑点を観ないのか?

笑点メンバー予想記事の検索順位が落ちてきたので、カンフル剤を投入します。

林家木久扇笑点卒業・・・次は誰だ

あれから予想は変えてませんが、◎桃花師はあくまでも客観的予想。
ただ、彼女特大号で相当フィーチャーされていて、あの処遇を見ると必ずしも地上波に行かない気もしてくる。
主観で入って欲しいのは○きく麿師です。弟子だし。

笑点特大号に、武道館での錦笑亭満堂真打昇進披露のもようが流れていた。
もしかして木久扇師の後任? それはないと思うが、いずれ交代の避けられない好楽師の後釜というのはあるかもしれないな。
スター性はある人で、笑点向けではある。

笑点は相変わらず特大号を録画して観ている。
日曜夕方、家にいるときも必ず観る。
なぜ観るか。落語が好きだからだ。
おかしい?

今日は、「真の落語好きは笑点なんか観ない」という、その妙な風習そのものについて異議を唱えたくなった。
正確に言うと、こういう決めつけが世間でまかり通っている、その不思議さについて。
別に「笑点を観ない落語好きはモグリだ!」なんて主張したいのではない。

「落語好きは、NHKの演芸図鑑なんて観ない」と言い放つ人がいたとしたら、その決めつけは不思議に思いませんか。
だが、噺家が勢ぞろいしている笑点が相手だと、そんなに違和感を持たれないのだった。

笑点は落語そのものではない。大前提としてこれは当たり前。
だが、「落語ではないから観るもんじゃない」。こうなると理解不能になってくる。噺家さんが出てるのに。
実は、本当に理解できない見解ではない。わかる。
当ブログを始める前までは、私もしばらく観てなかった気がする。寄席には通っていたけど。
落語、寄席が好きになると、テレビの中の輝かしい世界に心理的反発が生まれるのかもしれない。
こんなディープな世界を知ってるんだぜという誇りが、目を曇らすこともあるだろう。
今の私は、寄席がディープな空間とは考えてはいない。私にとっての日常だから。
寄席について「笑点に出ていない芸人が出るところ」という認識でもない。
寄席の世界と、笑点は完全に地続きである。
つながっているものの片方を、あんなもの呼ばわりする人を見ると、現在の私はポカンとしてしまう。

笑点を観ない落語好きの意見を抽出してみる。

  • 笑点メンバーは本業はヘタクソ
  • あんなもの台本なんだから俺でもできる
  • 大喜利なんてものはお遊びだ
  • すごい一之輔をあの程度の番組で楽しむな
  • あんなもんで喜んでる地方の年寄りと一緒にするな

逐一反論はしない。当ブログもよくこんなの取り上げてるし。
しかし、観ないで言うほうもすごいけどな。

私自身、ブログの初期の頃はまだ、若干こんな空気を吸い込んでいた。
今でも検索ヒットする「笑点メンバーの落語」なんて記事を読むと、それを感じる。
その後もなおしばらくは「笑点もいいけど、寄席にもどうぞ」みたいな空気を、私もまたまとっていた。
現在は、笑点という番組のすごさに恐れおののいていると言っていい。
今ではあれこそ、究極の話芸だとも思っている。
立川雲水なんかには、一生理解できない高度な話芸。
噺家なら、座布団を本気で目指したっていいんじゃないかとすら思っている。だからと言って、「がんばって笑点に出てくださいね」と声をかけるのはやめたほうがいいが。

私の認識が変わったきっかけは、歴史をさかのぼると好楽師をよく聴きにいくようになってからかも。
あのポンコツ扱いされている師匠は、持ちネタの幅がとても広い。ふたりの師匠からあらゆる要素を吸収している。
でも、「好楽師は本当はすごいんだ!」と声を上げたいかというと、ちょっと違う。
ポンコツ扱いの好楽師も、また地続き。
よく聴くようになって、どちらの好楽師もより好きになった。

小遊三師は、高座と笑点を結構切り分けている人。
笑点には笑点用の話芸がある。この人なりの誇りを感じるのだ。
軽い滑稽噺で圧倒させる小遊三師だけ評価して、エロネタ、小便漏らしネタの師を無視するのは人生の損失だと思う。
姿が違うほうが、両方好きになりやすいというのはある。

番組で好楽師のお世話をしている、チームマカロンの桂宮治師、最近妙に好きになってしまった。
「妙に」はおかしい?
この人、真打昇進前にマクラで見せていた尖った感じが嫌で嫌で。落語本編はすごい人だなという認識でいたが。
それがカメラの前では、実にいい人に映っている。
あれがニセモノだなんて言う気はない。これまた、宮治師の姿のひとつ。
噺家のくせに、地方ではひとりでいたいそうだけど。かまいたち山内と似てる。
逆に、二ツ目時代に感心していた落語のほうは、それほど聴きたいと思わなくなった。
この点、笑点しか観ない人と、感性が近接してきたのだった。

噺家さんは寄席では与えられた役割を果たす。
チームプレイではあるが、ただ高座の上ではひとり。
いっぽう笑点大喜利は、最初から集団プレイ。
あるいは、最初からこちらのほうが高度なのではなかろうか?

地方の落語会に、大好きな笑点メンバーが来ると聞いて、初めて落語を聴きにいく。
その際、話芸を聴いて高揚する人は多いはず。
でも実は、「いつも観てる笑点のほうが面白かったな」とひとりつぶやいて帰宅する人もいると思う。
普通は馬鹿にされる感想である。落語なんて、なかなかわからないよなと憐れみを受ける。
でも実は、日ごろ観てる笑点が大変高度なため、それに合わせた期待を得られなかったケースもあると思うのだ。

期待の一之輔師はいま、もがき苦しんでいると想像する。
毒の吐き方も使い分けないといけないし、そもそもお茶の間に親しんでもらわないと芸の発揮どころではない。
とはいえ根本が別競技というわけでもない。
マクラの創作で培った技術でなんとかなるが、でもそれじゃ足りない。
そして宮治師が、実に見事にアジャストしてる様子も目の当たりにしている。
だが苦しんだ分は必ず、本業に反映されてくると思う。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

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