毎月23日は、落語「堀の内」の舞台である堀之内妙法寺でもって、堀之内寄席。
芸協の二ツ目さんが長講を披露する会である。
コロナの渦中も工夫して開いていたこの席、2年ぶりに出向く。
2年前の3月のトリは、その後真打に昇進する柳若さん(現・柳雀)だった。
いつも気にしてる会だが、決して近くはないので。
今日は阿佐ヶ谷にコーヒー豆買いにいくのとセット。
妙法寺に電話してみたが、もう予約も受け付けなくなっている。
すっかり以前に戻ったようだ。
ニ階の会場通路から見下ろすお寺の中庭は、ツツジが見事。
世話人の古今亭今いちさんが前説。
今日の3人は、みな帰ると配偶者が待っています。
私は方向性の違いで今ひとりです。
古今亭今いち改めバツイチでやろうかと思っています。
いや、知らんがな。
春風亭かけ橋さんは1年半ぶり。
今日もマクラから、元師匠、三三の口調全開。
堀之内寄席は格の高い連雀亭、とか、そんなことを言ってた。
神田連雀亭には顔付けされてないのだけど。
本人の希望以前に、二ツ目飽和問題があるみたい。
小さな落語会は打ち上げの客のほうが多いと語る、ごく普通のマクラ。
そこからそろそろシーズン開始、お菊の皿。
さすがお囃子さんも来てる堀之内寄席だけあって、ハメモノ入り。
いきなり太鼓が鳴って驚いた。
細かい工夫があって面白い。実にさりげない。
隠居宅に、房州で耳にした皿屋敷のいわれを訊きに行くのは3人だけ。
この3人が、最後まで物語の狂言回しとなる。
面白いことに「6枚ぐらいで帰れば大丈夫じゃないか?」と言ってるのは隠居自身。
お菊の皿の遊びのルール、「6枚で帰れば大丈夫」だが、実は根拠がないのだった。隠居の推測からすべて始まっている。
だから、18まで数えるサゲも違和感なし。
噺の穴が気になって、ちゃんとケアするのは偉い。
聴く側が気にならなくても、穴が気になって掛けられなくなることもあるので、穴塞ぎは大事なのだ。
噺を離れたクスグリは入れたりしない。
キレイな人なら幽霊でもいい、生きてたって、のような定番クスグリでウケる。
が、1箇所だけ遊びを入れる。1箇所だけというのがポリシーみたい。
毎日お客が来て嬉しくなったお菊さん、自分を観にきた客に向かって、「いちまあい」を一緒にやりましょうと。「いちまあい」。
演者に戻ったかけ橋さん、お客を見渡し、「やりましょう。全員参加型です。前後ろの方は他人ですから。せえのと言ったら数えてください」。
お菊さん改めて「せえの、いちまあい」。客、唱和。
結末直前のお菊さんは、過労のあまり森進一の声で登場。
ここまで、客が一杯で立錐の余地もないというくだりを語らないのが手練れ。
そして、やる気のないお菊さん、「にさんまい」「しごろくまい」。
客が、ああ〜死んじゃうよ〜というくだりを振らないのもちょっとした工夫。
ふざけ具合の絶妙さが、どうやらかけ橋さんの持ち味。
調子に乗りすぎるとグズグズになるのを知り尽くしているのでしょう。
2番手の初めて聴く人はガッカリ。
とにかく、噺を騒がしくする方法論。高座をやたら叩いてうるさいし。
そして、力の入れ具合がとことんおかしい。
こんな方法論で長短をやられてもな。
仲入り休憩挟んで三遊亭遊子さん。
この人も聴いてないわけじゃないが、昨年は残念な他人の高座のアオリを受けて、いい高座(松竹梅)を取り上げなかった。
三遊亭遊子でございます。かわいい女の子でなくて申しわけありません。深くお詫びします。
こんな定番挨拶だけでもって、なんだかゾクゾク来た。
いや、なんだか風格を感じる。
噺家生活12年、そろそろ真打も見えてくるこの時期、トリというものに対する思いがありますと語って、井戸の茶碗。
井戸の茶碗、いささか飽き気味なのは否めない。よく聴くので。
だが、遊子さんの語り、脳ミソ内の井戸茶領域をやさしくタッチペンでなぞられる、そんな快感に満ちていた。
ちなみに二度ほど聴いている、遊馬師のものとほぼ同じ。
吹き矢とクサリガマが出てくる。
井戸の茶碗のあと、清兵衛が待ち構えたように出てくるのも同様。
きっと直接来てるんだろう。
演出が同じでも、タッチペンでなぞられる快感は強いまま。
面体改めで、クズ屋に悪態をつかないのが現代ふう。もっとも、「被り物を取れ。なに、もう取っておるのか」みたいなオドロキはしっかり入る。
架空の仇討ちは、非常に軽い。噺の脱線扱いにするほどでもないということか。ただ、この軽さ、テキトーさはたまらない。
というわけで、聴いた当日だけで今日のブログはおしまいです。
2番手はいただけなかったが、満足度は高い日でした。
(皿の数え方、昨日聴いてた時うどんが混ざっちゃいました。ひとおつではなく、いちまあい、です。修正しました)