柳家花緑「電信後退」(演芸図鑑)

浅草お茶の間寄席のTVKネットが消滅し、テレビの落語ライフは寂しくなった。
NHK演芸図鑑も新シーズンが始まらないので心配したが、ちゃんと今日からスタート。もっとも4月開始のシリーズはここ数年、月の中盤スタートみたいだけど。

NHK演芸図鑑、朝5時15分の開始なのに、観てる人多いのだなと思うときがある。
当ブログへの検索訪問の多さでわかるのだ。
いったい誰がこんな早朝に観てるのか。今日は私も観ました。
1週間振りに酒飲んだところ、早く寝て早く目覚めたのだ。そして、朝7時までにブログを書き上げる。
ちなみに、さらに早い時間に落語研究会で一之輔師が「帯久」やってる。これはゆっくり観ます。

演芸図鑑の漫才はウエストランド。あるなしクイズの新作。
毒舌が面白かったが、さらに感心したことが。
最後、あるなしクイズの正解を「言いたいこと言ったんでもういいです」と井口が遮って、言わないまま終わるという。
M-1獲ったとき、2本目でもってあるなしクイズの正解が欲しかったという声があったのだ。私もそう思った。
だが、「クイズの正解なんてないし文句あるか」という態度はいたく清々しいものだった。

さて、このあとが今日の違和感。
落語が柳家花緑師。
「同時代落語」と銘打って、洋服で椅子に座って語るという。
まだ、こんなことしていたのか。
10年前からやってるとのことだが、もっと古かったんじゃなかったっけ。
花緑師いわく、このスタイルだと落語がグローバル化するという。そして、椅子に座るスタイルが、古典落語と同じ様式美になるのだと。

私は、次々に優秀な弟子を送り出している花緑師に、常日頃から敬意を払っている。
惣領弟子だけ破門したけども、その後は次々。
中途半端な落語の知識を持った人からすれば、「優秀な弟子なんている?」と言いそうだけど。
おさん、勧之助、花いち、吉緑etc. まだまだいる。

師を悪く言いたい気はまるでないのだけども、朝から聴いた同時代落語とやらの中身が実に残念だったのだった。
ちなみに、椅子と洋服についての違和感はそれほどない。カミシモも普通に振るし。
かつてこんな記事も書いた。

落語に正座は必要か(東京かわら版柳家喬太郎特集より)

引っかかったのは落語の内容と語り口である。
テレビ画面を熱心に観ていたのではなく、音だけ聴いて違和感が。
普通に寄席の高座で、着物を着て座布団に座っていたのだとしても、やはりうーんと思うはず。

まず口調。
もともと花緑師の悪い評価の中には、その語り口もあるところ。
トーンが高めで、声が軽い。悪い言葉で評価すると薄っぺらい。
声なんてものは持って生まれたもの。声のいい悪いもあるけど、それに合わせた口調が見い出せればそれでよし。
だが、軽いトーンの語り口、古典落語には意外とフィットする。古典落語の語り口として、角度が付く。

だが同時代と言いつつ、現代の落語を軽い口調で語ると、違和感大。
新作派もたくさんいるが、日常的な軽い語り口の人のほうが珍しい。
演劇のように大げさに語るか、朴訥な棒読みか、あるいはエキセントリックか。
新作派はむしろ、日常の語りでは落語を語れないことを知り尽くしているのだと思う。
一番わかりやすい例は、自作新作派より、文枝新作を多数手掛ける柳家はん治師だ。あの日常から離れた口調で、新作も古典も語る。

噺の内容は、ピントがずれた男が、「スマートフォンこうなったらいいのに」を友人に語り尽くすというもの。
画面がバキバキに割れてしまった、画面が保護されればいいのに。あるよ。
落とさないように輪っかで指に引っ掛けられればいいのに。あるよ。
背中だけでも覆ってくれればいいのに。あるよ。
折りたたみできればいいのに。ガラケーだよ。
いっそ携帯がかばんみたいに大きければいいのに。それ昔の携帯電話だから。
いっそうちに置いてくればいいのに。それ固定電話だから。

こんなふうにピントのズレた男が、「こうだったらいいのに」と次々と電話の時代をさかのぼっていく。
ズレた人間の気軽な発明が、進化をさかのぼっていくというのが、面白みになるはずなのだが。
なんにも響いてこない。

いっそ、隠居と八っつぁんの会話で、隠居が真剣にツッコまないという古典落語の世界を間借りしたほうがまだ面白いんじゃないかと考えた。これなら少なくとも噺に角度は付くし、ホラ噺をしている感も湧く。
柳家小ゑん師は、そんな新作応募作品が大嫌いらしいから小声で言うけど。

逆説的だが、「同時代」は成り立たないなと。
新作落語も、着物と座布団という古い様式美の中でやるから、世界に角度がついて面白いのだと思った。
花緑師の作品への違和感は、かつてある女流新作派に感じたものと近い。
完全なる現代人のセリフとして、古典落語の世界からまったく異質のものとして語るがゆえに、違和感が広がっていく。

まあ、同時代落語の内容自体、日常から見て激しくエッジの効いたものだったら、違う評価もあるだろう。
話が平板で、語り口も平板となると、評価しようがないではないか。
花緑師も、弟子を交えて徹底的に討論してみてはいかがか。弟子に助けてもらうのも、師匠の器量だと思う。

(2024/10/23追記)

「弟子に助けてもらえ」なんて書いたが、「電信後退」は私がファンである弟子、花飛さんの作品だったらしい。
申しわけございません。
神田連雀亭の配信で聴いた同作品は立派なものでした。

 
 

作成者: でっち定吉

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