立川談志「居残り佐平次」

「おとなのEテレタイムマシン」、志ん朝に続いて第2弾。
本当は枝雀もあったのだけども、子供の頃から枝雀だけはどうもピンと来ない。
繰り返し聴いて、面白さの理解はできているのだが、人さまにどうこう語りたいモードになっておらず。

この点、談志の居残り佐平次(1979年)はもう、ストレートに響いてきた。
ストレート、というのが自分でも不思議。
現代の落語からすると、異端児なのに。いや、当時だって。
志ん朝はわかったつもりでいたが、談志についてはわかったつもりになったことは一度もない。
だが、この若い談志がピシャリハマった。

とにかくテンポが速いのだが、そのテンポ自体が面白い、という落語ではない。催眠効果は高いが。
テンポ自体が面白かったのは橘家圓蔵。
圓蔵は、「噺家には上手いのと、達者なのと、面白いのがいる」という言葉を残している。
それぞれ、志ん朝、談志、圓蔵ということになるが、「達者」と「上手い」の区別はよくわからない。
だが、今回ちょっとわかったかもしれない。
上手い、というのは落語の物語を語る資質なのだろう。噺の全体像を伝えられて、はじめて上手いになる。
いっぽう達者が指しているのは、もっとテクニック論寄りなのかもしれない。こんなスピーディにリズミカルに語り、言葉のきれぎれが客に伝わらなくても別にいいやなんて落語は、当時も今もなかったわけで。
達者、としか表現できないのでは。そして、談志以外の「達者」が古今東西いるかどうか。

マクラを振っていないが、地のセリフで正面切って語る談志に、現代の人間国宝五街道雲助を連想した。
不思議だ。正面切りながら所作を入れる談志と、ピタッと静止する雲助師と、まるで似てないのに。
若い談志と円熟の雲助、スピードもまるで違うのに。でも空気が近いのである。

冒頭、隣町の四人衆と佐平次の会話というもの、こんな導入部は聴いたことがない。
隣町の四人衆のうち、佐平次を知っているのはひとりだけ。あいつだ、祭りになるとやたら神輿に乗ってるあいつだろと。
あまり知らない佐平次を、面白そうに感じてくっついてきてしまう。

品川の説明もまったくない。速い速い。
今の客も当時の客も、欲求不満になる人もいそう。ただ、全員引き連れて進む気はもともとないらしい。

セリフをスラスラ語っていく談志だが、客席は静まり返っている。
客が惹きつけられているその気配はよくわかる。
爆笑なんかない。能動的に笑っている場合じゃないのだ。気づくと先に進んでいるから。
だが談志の気の利いた台詞回し、面白いから今の客なら一生懸命笑う努力をしそうだが。
今、どういう場面にあるのかわからない客も多いと思う。でも、引きつけられている。

現代の噺家で、客に100%伝わらなくてもいいという語りをする人は、極めて少ない。
客がついてきてくれないのが、演者としたら怖い。
談志の佐平次、「万事あたしが世話九郎だ」なんて語ってる。宿屋の仇討のわかる客だけニヤリ。
でも、いちいちニヤリしている時間もない。噺はどんどん先に行っている。

四人衆を帰し、居残りスタートの佐平次、若い衆にセリフを挟ませず、猛烈なスピードでまくしたてる。
劇場型振り込め詐欺の実践がここにある。
調子のいいことをパアパア言っていたかと思うと、啖呵も切る。それでもとにかくわけのわからないうちに勘定が先延ばしになってしまう。
これが演者も一番楽しいのだろうなあと。

だが佐平次、もう一段トランスフォームを見せる。
客として、ふた晩上から迫っていた佐平次は、ついに一文なしなのが明らかになり、一番下の立場になる。
だが、まったく動じない。
今度は、見事なたいこ持ちに変貌するのだ。
スピーディな展開なのに、佐平次がお姐さんがたの手伝いにいそしんでいる様子はしっかり描写される。
談志という人の、持って生まれたサービス精神が発揮されているのだろう。そんなもの持っていたと思わない人もたくさんいるだろうけど、あるのだ。

客の勝っつぁんの部屋に乱入し、ヨイショの限りを尽くす佐平次。
現代では、ここは心理ドラマとして描かれる。それが悪いというのではない。
ヨイショの連続で、ついに心付けを出す勝っつぁんの心理を描くとウケる。
でも談志、そういう迫り方はしない。露骨に小遣い要求してるし、刺し身は勝手に食おうとするし。
客が演者の幇間からヨイショされる心理になり、気持ちよくなってくるのとも違う。
この人、なんなんだろうと不思議な生き物を見ている心持ち。

この場面で羽織を脱いだのが面白い。冒頭から随分経っているが。
脱いだのは、勝っつぁんとしてだが、早脱ぎなので、これからサービスに励む佐平次が脱いでいるようにも思える。

その先、出ていってもらうまではアッという間。
旦那との会話も実に短い。とっとと200両と結城をせしめる。
サゲはオリジナル。
「あんなもんに裏返されたらあとが怖いだろう」
マクラで仕込んでいるわけでもないし、わからなければもうわからないでいいという思想らしい。
一見サービスに欠けていて、しかし角度を変えてみると過剰なぐらいのサービスが溢れている、不思議な高座。

今後も繰り返し聴いて楽しめそうだ。

作成者: でっち定吉

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2件のコメント

  1. 久しぶりにコメントします。
    この高座小生もテレビで見ましたが、定吉さんおっしゃるニュアンスがよくわかります。
    いささかトピズレになるかもしれませんが、以前ある若手真打と飲み会で、それなりに真面目な話になり、噺の中にどこまで説明を入れるのかで苦心していると言っていたのを思い出しました。
    小生も生では聞いていませんが、大昔の可楽の音源などを聞くと、セリフを極限まで切り込み、今からするとビックリするような時間で終えてます。その真打によれば、それだとお客様がついて来れないので、どうしても最低限解説をつけると時間がかかると。
    演者からすれば、そのせめぎあいに腐心している方も多いんだろうなあと。

    1. いらっしゃいませ。
      説明問題は難しいですよね。
      圓太郎師も棒鱈の「故障が入った」の説明をかつてマクラで振っていましたが、やめたようです。
      八代目可楽。これはすごいですね。
      私も音源たまに聴いていますが、究極の刈り込みです。

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