落語の人情 その1

落語の人情噺は好きですか?

ちょっと前、政治家批判にかこつけて人情噺をdisるメディアがあった。極めて不快。
これについてはブログ内の記事に書いた。

権威をこき下ろすために、他の権威(談志)を引っ張ってくるのは、実に嫌らしい態度。
「人情噺をありがたがるのが気持ち悪い」という感覚があるならそれ自体相当どうかと思うが、百歩、いや千歩譲れば、理解できなくはない。
落語は滑稽噺が基本。そこまではいいさ。
だからといって、滑稽噺を過剰にありがたがって人情噺を貶めるとなると、それも相当気持ちが悪い。

そもそも、滑稽噺と人情噺って、コインの裏表みたいに真逆のものなのか?
まず、そこだ。
人間の感情は、喜怒哀楽、きちんとわかりやすく分かれているものだろうか?
本当にそうだとしたら、「泣き笑い」「悲喜劇」なんて言葉に意味はない。

あなたはなぜ落語を聴きますか? 他のお笑いでなくて。
お笑い好きの落語ファンだっている。私もそう。だが、お笑いと同じテンションで落語聴く?
「滑稽」だけに着目して落語を聴くというなら、お笑いのほうでもいいと思う。
「落語を聴きにいって、笑ってストレス発散しよう!」という呼び掛けはよくわかる。
わかるいっぽうで、私は現在、笑いのために寄席に足を運ぶことがほぼないことに気付く。
あくまでも、「おはなし」を聴きにいっている。面白い噺も、泣ける噺もそこにはある。

笑いなんてどうでもいいというのではない。大変重要な要素。だけどそれで全部じゃない。
滑稽噺の中にも、「人情」がたっぷり隠されているのである。
今回はそれについて。

落語の世界は、人情に溢れているといっていい。
前座噺からして、そうなのだ。客が自覚するしないは別にして。
落語を好きな人なら、きっとどこかでこの構造を自覚していると思う。

「ご隠居と八っつぁん」のシリーズは実に多い。

  • 千早ふる
  • 子ほめ
  • 道灌
  • つる
  • 新聞記事
  • 十徳
  • 一目上がり
    etc.

しょっちゅう聴くこれらの噺、なぜ聴き飽きないのか。
いや、聴き飽きたという人もいるだろう。そういう人はいずれ寄席には来なくなる。仕方ない。
何度も同じ前座噺を聴いて飽きないのは、人生に余裕のある隠居と腰の落ち着かない八っつぁんの間に、しっかり人間関係が描かれているからだろう。
年齢の離れた二人が、互いのことをしっかり思いやる気持ちがそこにある。
八っつぁんは、隠居がそれぐらいでは怒らないというのを知っていて、その領域で憎まれ口を叩く。
罪のない嘘話で相手をからかってやろうという了見も、仲がいいからこそのものだ。
これらの噺には、劇的な展開は別にない。
隠居の作り噺を八っつぁんと一緒に楽しむ「千早ふる」だって、実は茶の間から一切出ないのだ。

前座噺のツボを心得ている前座さんの噺は、聴いていてとても気持ちがいい。
だが中には、「俺が古典落語を変えてやる」と勘違いし、余計なギャグをぶち込んで客を白けさせる前座もいる。
そういう人は新作落語作ったらいいのかというと、作ってもウケないだろう。
古典落語に流れる人情のエッセンスを感じられないとするなら、舞台を現代に替えたところで、同じ程度の薄っぺらい笑いしか得られまい。

続きます。

作成者: でっち定吉

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