落語の人情 その2

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なにをもって人情噺だというか。定義はあやふやである。
「サゲのない噺が人情噺」だなんて定義も存在する。
滑稽話ではない噺イコール人情噺だと言ったって別にいい。この場合、怪談噺も人情噺に含まれる。
もっとも、じゃあ滑稽噺ってなに? となる。
そもそも「落語」自体定義があやふやだ。
落とし噺のことを落語というのに、オチのない噺も落語になってしまうのだ。

笑いが主なのが滑稽噺、泣かせるのが人情噺、というのも、ひとつの立派な定義。
だけど、これだと「泣かせることを目的とする」噺だけが人情噺となる。それが明白に間違いだとはいえないけども。
泣かせる噺に笑いがないかというと、そんなことはない。むしろ、泣かせる後半のために、前半に笑いを盛り込むことだってある。
この定義に即すると、上方は滑稽話が主体。人情噺はめったにないとされる。
でも、上方落語であっても、滑稽噺の随所に人情は、豊富に漂っているんじゃないのと思うのである。
「崇徳院」なんていい例では。
若い二人が一緒になれてああよかったという背景がなければ、噺が成立するまい。
犬の人情だが、「鴻池の犬」だってそう。
「胴乱の幸助」「はてなの茶碗」などの大ネタにも、人情はしっかり描かれている。
架空の嫁いびりを止めに、三十石船に乗ってわざわざ京都まで出向く割木屋のおやっさんは、はたから見て滑稽なだけだろうか? 勘違いでもそこに毅然とした思いがあるから、噺に厚みが生まれるのではないか?
茶碗で大儲けをしようとしてしくじる油屋の感情に対し、感じ入るところはないか?
私は「高津の富」にだって、あるいは「愛宕山」「兵庫船」「小倉船」などにも人情を感じるけども。

上方落語の場合、人情の要素が、笑いの奥底に隠されている傾向はあるかもしれない。
東京はもう少し、笑いと違う感情に対して素直に向かい合う客が多いのではないか。
でも、落語で本質的な東西の差はないと私は思っている。関西で落語人気が上昇するに付け、味わい方もより複雑さを増していくように予想する。

東京の場合は、泣かせる噺から、爆笑要素の多い噺まで、「人情噺」と呼ばれることが多い。
「井戸の茶碗」なんて、しんみりしたところは特にないのだが、とにかく終始「いい噺」なので、人情噺だと理解する人が多いだろう。
「笠碁」もまた、しんみりしたところはほとんどないが、私は人情噺だと認識している。爺さんの喧嘩と仲直り(ただし、真にドラマティックではなく、結構軽い)の噺。
「妾馬(八五郎出世)」など、ちょっとだけ泣かしどころがある噺も、人情噺と呼ばれる。

さて、中には誰も人情噺と認識しないであろう噺にも、勝手に感じることがある。

以前書いた、「二番煎じ」の記事。
さすがに私だけかもしれないのだが、これに強い人情を感じる。
役人である同心と、旦那衆との間の心の交流の噺だと思っている。
古典落語というものには、人物設定がきちんと描かれていることが多い。そうすると、人情が勝手に噴き出てくるのだ。

「誰が見ても人情噺」についてではなく、滑稽噺に隠された人情をちょっと探ってみようと思うのです。

続きます。

作成者: でっち定吉

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