落語の人情 その3

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1日別のテーマを挟みました。「落語の人情」に戻ります。

落語の演目は大変多い。手あたり次第になるが、滑稽噺の裏で骨格を支えている「人情」を探してみる。

「ぬか喜び」つまり感情の爆発と崩壊は人情を揺すぶる要素。これに「騙し」が加わるとなおさらだ。
これらの要素でできた噺が「転宅」。

忍び込んだ妾宅で、見事に女に騙される泥棒。間抜けである。
間抜けであるからこそ楽しいのだが、この泥棒の感情に迫っていくと、なんともいえないもの哀しさが生まれてきて、聴き手の感情を揺り動かす。
揺すぶられない人は感性が鈍い。なんてそんなことは言わない。
だが、終始笑っている人の身心にも、噺に漂うペーソスは、なんらかの影響をもたらしていると思う。
橘家文蔵師が十八番にしているが、特に師の演ずる泥棒は切ない。
騙す女、お菊に所帯を持とうと言われて本気にし、翌日家の前でずっと待ちつつ、妄想にふける。
二人の間には娘が生まれ、この子が小学校の作文に「私のお父さんは日本一の大泥棒です」と書き記す。
いきなり入ってきて飲み食いしている泥棒と、所帯を持とうなんて言い出す女はいるはずない。だが、騙されるほうの心情を入念に描けば、あり得ない状況も一瞬だけ事実になるのだ。
これが裏切られる際の悲喜劇を味わいたい。

それから「青菜」。最近も、三遊亭竜楽師でいいものを聴かせていただいた。
これは植木屋が、旦那の真似(オウム返し)をしてしくじるというだけのシンプルな噺。
別に「いい話」でもないし、感動する場面があるわけでもない。
だが、噺の随所に、濃厚に人情が漂っていると思う。
口の悪いおかみさんとの間の、亭主の濃厚な触れ合い、それから大工の友人との友情。
なによりも、植木屋が一瞬垣間見た、上流階級への極めて純粋なあこがれ。いやらしさなどはかけらもない。
旦那の真似をしたくてならない植木屋に、かみさんも友達もしっかりと付き合ってくれる。
そういう構造を踏まえるなら、この噺を演ずる人、亭主のやりたいことにいちいち突っかかるのはよくないと思う。
コントにおけるツッコミだからウケどころとして突っかかりたいのだろう。だが、やり過ぎると噺の全体構造に反すると思う。

泥棒噺の「締め込み」も、私の思う人情噺。これについては以前書いた
人情が滑稽噺に、深みと彩を与えていて、実に気持ちがいい。
泥棒噺も無数にあるけども、このような構造を持った噺は他にないと思う。
自分を原因にして夫婦別れが起こったとしたら、とてもいたたまれない間抜け泥棒がしみじみ味わい深い。

次に「雛鍔」。
わりと単純な、無邪気そうで邪気のある子供が出てくる構造の落とし噺の中に、明確に人情噺の構造をサンドイッチした、ある種不思議な噺。
噺ができ上がっていく過程においては、実際に人情噺の部分が後からサンドイッチされたのではないかと想像する。
人情を盛り込むのが目的だったのではなく、隠居が植木屋を訪ねてくる設定を自然にするために、この部分が詳しくなっていったのではないか。
実際、子供が若様のまねをするサゲの構造に、人情噺の部分は、表面的にはさしてかかわっていない。

こういう構造で完成された噺において、聴き手の心に響くのは、後から挟まった部分のほうだ。
やり過ぎると引きそうだが。
あまり聴かないのは構造が変わっているからか。
雛鍔は元々は上方ダネだが、上方にはこういう構造の噺はないかもしれない。

続きます。

作成者: でっち定吉

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