笑点盛岡収録を観て一之輔に感心する

地上波笑点は、家にいるときにしか観ない。
いつも特大号を録画して観ているのだが、野球シーズンは特大号の放映が遅れがちだ。
昨日ようやく、地上波では7月末にオンエアされたらしい大喜利を2本まとめて観た。盛岡での収録。

当ブログの反響の話。
なまじ地力があるがゆえに、時として書き手の想定を軽く超えることがある。

実は、あの人気落語家がすっかり苦手になりまして

この記事の反響は想定外であった。
なにしろ「落語 嫌い」という検索ワードのトップである。
「嫌いな落語家」でトップなのはまあ、わかる。直接「嫌い」だなんて書いていないのにもかかわらず。
しかし、「落語 嫌い」というのは、落語自体が嫌いな人が、その感性を補強しようと探すワード。そんなので1位になるか?

笑点レギュラーになった一之輔師への失望が日々膨らんできて、それで書いたもの。
わざわざ書かなくたっていいような内容ではある。
だが人気ナンバーワンの噺家について、私はしばらく取り上げていなかった。すでにイヤになっていたのだ。
その感性を隠しておくのもなんだかなと思って。

しかし、今回の特大号で、だいぶ取り返したかなと思った次第。
単に私にアジャストしたということではない。もともと才人である一之輔師が、最強バラエティにおいて見事お茶の間の反応を操れるようになったのだろう。

ちなみに、先の批判記事の続編も考えていた。タイミング合わなくて出していないけど。
「万博dis」と「娘いじり」については、本当によくないなと思い、理論的に批判しようと考えていたのだ。
大阪万博については断っておくが、行く気はないし、そもそも強く興味をそそられているわけではない。
それにしてもあの、一方的な立場からボロクソ言い放つ態度は極めてよくないなと。もともと特定思想から自由なのが誇りの人だったはずなのに。
しかしもう、やめたようだ。他人に言われてではないと思う。
「笑点にわれわれの味方が増えた!」と喜び、いま残念がったりしている人もいるだろうが。

世相を批判しちゃいかんなんていう気は毛頭ないが、一方的なネタは必要以上の反撥を生む。
ただそれより嫌なのは、娘ネタ。
今回の特大号、まだ若干あったけども若干マイルドにはなっていた。

実在する娘さんとの、家庭内での関係などもちろん知らない。

「ごめんなあ、またネタにさせてもらったけど。学校でいろいろ言われてないか」
「うーん、言われるけどさ。でもああいう仕事なんだからってちゃんと言ってるから」
「悪いな。ウケるからやめられなくてさ」

なのだろう。きっと。
そう思いたい。でなければ悲しすぎる。
しかし娘さんとしては、「父親を罵る思春期の娘」という、別のキャラクターを常に意識して生きなければならなくなる。好奇の目にもさらされる。
自分の中に架空のキャラクター「笑点でおなじみの、親父大嫌いな思春期のわたし」を抱えて生きていかざるを得ないというのは、成長期においてなかなかしんどいと思うのだ。
なにしろ、この親父のネタには、「俺はお前のことが大事だ。好きだ」というメッセージが欠けているのだもの。いや、それがあったって無傷では済まないのだが。
一門の橘家圓太郎師の娘ネタには、愛情が溢れていてとてもいい気分である。

もうひとつ、先の記事には書かなかったが「過剰な悪態」。
これは、先の記事を出したのちに一時最悪になった気がする。
「笑点がんばってくださいね」みたいな普通の声援を拒絶するという、かなりヤバいネタ。
だが、こちらはまだ残っているものの、だいぶ洗練されてきた。ハゲネタに入るなと客に想像させておき、「なに笑ってんだ」とキレるという。
ごく普通に、「笑点の人気者」として求められる姿にアジャストしてきた、そういうことなのだと思う。

なんだ、でっち定吉はまだ一之輔がイヤなのか。
いや、いいほうの要素が強化されているのを観て、実は嬉しくなったのだ。
隣の超ベテラン、小遊三師との関係性が強まってきて、実にいいコンビになっている。
もともと笑点の小遊三師は、意外にも孤高の人であった。秩父・大月ネタぐらいしか、他人との絡みがない。
その懐に、協会が違うから接点の薄かった一之輔が入り込んだ。
「お爺ちゃんの介護」「シモの世話」という位置づけが、とても楽しい。
孤高の人が、とてもそれを楽しんでいる。世話するほうも、また。

これは、宮治師がポンコツ好楽師の世話をしているのとまったくのパラレル。
笑点ファンの知らない、極めてとんがっていた宮治が最近明らかに私の中で好きのほうに変わったのは、番組と好楽師のおかげである。
「番組の表面的な役割で好き嫌いを判断するのか?」と言われそうだ。
だが、水色と紺色、ピンクと浅黄色の関係性は上っ面だけなのか。もちろんそんなことはないだろう。

というわけで、また変なスイッチが入って作法のおかしな世相批判など始めない限りは、笑点の一之輔師については楽しめそうだ。

だが今回こんなことを書いても、先の記事の反響はスゴすぎる。
削除しない限りこの先ずっと検索で引っかかり、「でっち定吉は一之輔を憎悪している」なんてことになったままなのだろうなあ。
でも、当時実際に思ったことを削除するいわれもないし。
先の記事に、こちらへのリンクは張るつもりだが。

多くの人は検索で引っかかる表面しか見ない。
「立川幸弥」なんて噺家がいて、この人を検索してきて引っかかる記事だけ、世間は拾っていく。
いじめっ子のとんでもない噺家がいたもんだと。
だが、それがすべてではない。
その後実際に幸弥さんを前座の最後と二ツめの最初と、二度聴いた。
二ツ目になった際の「元犬」を、私は激賞しているのである。そんなこと、誰も知るまい。
幸弥への批判的な視点とともにきちんと評価もしているのだが、後者はネット社会ではなかったことにされるのである。
そういうネット社会の波に乗っかっている身からして、あきらめもあるけども。

まあ、個人的にどん底の評価から抜けだした一之輔師、また注視していきます。
本業のほうも聴いていかなきゃいけない。
先日やめた産経らくごでいくつか聴けたのだが、聴かなかった。
別に「聴いてやるものか」というほど意地を張っていたわけでもなくて、優先順位の問題に過ぎない。
まあそろそろ、落語研究会あたりで出るだろう。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

粘着、無礼千万、マウント等の投稿はお断りします。メールアドレスは本物で。