実は、あの人気落語家がすっかり苦手になりまして

今日の記事は「噺家批判」という、当ブログで一番人気のあるカテゴリにしたけども、批判とは実のところちょっと違う。
批判は私自身の中で熟成された怒りであるとか、軽蔑であるとか、とにかくも一応練り上げた見解をもとにおこなう。
今日はそういうのではない。
建設的な見解でもなく、あまり好んで出したい内容でもない。
でも、自分の感性が変わってきて、その自覚が無視できなくなるほど拡大してきたときに、隠してそれを出さないのも違う気がして。
かれこれ半年ぐらい、書かないことですでに隠してきた気がする。

共感してくださる方も多少はいるだろうが、共感を得たいわけでもない。
ひとりの落語ファンの、感性の変遷ドキュメンタリーと思っていただければ幸い。

昔の記事を振り返ると、当代三遊亭圓歌師をしばしばベタ褒めしている。師の話術がいかに優れたものであるかも。
その時点での感想であって、仕方ない。現在の感性でもって書き換えるのも変だし。
その後圓歌師は、自らやらかした事件によりアッチへ行ってしまった。

当ブログにおいて、柳家喬太郎という師匠は別格の地位にいる。つい最近も取り上げたばかり。
この師匠ひとりだけ、例外的に「柳家喬太郎」という名のカテゴリを作っている。
でも実は、もうひとりカテゴリを作っていた人がいる。
これをこっそり消して、もう半年ぐらい経つだろうか。

この人について最後に記事を書いてから、もう1年と2か月経った。
その後、もうカテゴリを維持し続けるのはおかしいと感じるようになったわけだ。
喬太郎と二人並べるなんて、ないなと。

苦手になった噺家は、春風亭一之輔。
2023年2月に笑点メンバーになったとき、私は心の底から喜んだのだ。
それから、実にあっという間の転落。

もはや笑点のこの人を、決して楽しみにしていない。
それどころか、毎週金曜のラジオ「あなたとハッピー」も数週間前にやめてしまった。
実際の高座はもともと、毎回ベタ褒めしていたわりには数は聴いてない。だが、実はずいぶん前からちょっと避け気味だったのかもしれない。

私はヤフコメあたりで「昔の笑点はよかった」と書いている連中大嫌い。
過去を美しく振り返りすぎているだけだと思うのだ。
だが、最近笑点観てても、つまらなくなったと感じる。あら、嫌いな感覚の人たちと同じになっちゃったよ。
木久扇師匠、楽しかったな。

私の嫌いだった故・6代目円楽の政治風刺を、方法論含めて一之輔が完全に受け継いだのは、予想外だった。
世間がそう期待しているのは知っていたけど。
表面に映る思想の是非を論じているのではない。歌丸スタイルまで遡れば、かなり激烈な内容でも別に嫌っていなかったのだ。
だが円楽も一之輔も、紋切型で薄っぺらい。
でもまあ、仕事だもの。このぐらいは仕方ないとも思う。
ただ、家庭内自虐ネタが強すぎて。
なんだか期待と違う。

「笑点と本業は別」というありがちな見解も好きじゃない。
当ブログは、ずっとそういう陳腐な見解と闘ってきたつもりだ。
でもまあ、この見解はなかなか便利なのだ。笑点だけ切り捨ててることで、落語好きとしての誇りは維持できるから。
だが少なくとも今になって、「笑点嫌いの落語好き」がなぜこんなにうようよしているかは、多少理解できたところだが。

一之輔は本業が上手いのだから、笑点なんかどうでもいい。
こんな、私の採用していない見解を取らない限り、一之輔の私の中での分裂は解消できない。
ところが一之輔は分裂しなかった。
ある種、より困ったことになった。
笑点とラジオだけでなく、本業も含めて全部アッチへ落っこちてしまったのだった。

土曜のNHKラジオ、真打ち共演を聴いた。
一之輔師が「天狗裁き」を出していた。
これが最後のチャンスだ、と勝手に思った。
結果、全部失った。
テレビや配信で、師の天狗裁きは何度か聴いた。その際には、決してネガティブな印象は持っていなかった。
だが、久しぶりに聴いて脱落。
振り返ると、「夢を見たくて仕方ない、その気持ちを登場人物全てが不必要に強化している」という世界に、うんざりしてしまったということだ。演者の狙いはまさにそこにあって。
マクラでは、公開録音の場で寝てる客を必要以上にいじるし。噺のテーマに関連するとはいえ。

2年前に、落語研究会で観た師の「麻のれん」をレビューした。
悪く書いたりしてはいないが、ただ取り上げた角度としては「放送コードへの挑戦」への賛辞が強かったかも。
その1年後、実際に入船亭扇辰師から麻のれんを聴いた。こっちが圧倒的によかった。
大きく違ったのは、按摩・杢市の人間的魅力である。
一之輔のスカした按摩が、扇辰の立体的な按摩に塗り替えられてしまったと感じた。
そのことを、今改めて自覚している。
天狗裁きも、ここ数年寄席で何度か聴いた、柳家さん喬師のものが一之輔を塗り替えている。
さん喬師、夢を聞きたい理由が繰り返しになるあたりから、明らかにスピードアップする方法論にしている。
夢を聞きたい理由を積極的に強化していく一之輔とは真逆である。もちろん、正解なんてないことも承知。
「普段の袴」も、喬太郎師が塗り替えた。別に、一之輔の普段の袴に嫌いなところなんてないのだけど、喬太郎師の世界がとても好きなのだ。
笑点の家族(娘)ネタも、娘に虐げられているというもので、なんだかハッピーさに欠ける。
この点、橘家圓太郎師の娘ネタは、いつもほのぼのしていて実に心地いい。

どうやら私、昔から一之輔のとんがった性格が、実はあまり好きじゃなかったみたい。伯山が好きじゃないのと同根で。
私は今まで、自分を欺いていたのだろうか?
最近聴くのをやめたラジオと別の、日曜日のSUNDAY FLICKERSは早くから聴くのをやめている。
こちらでは、鬼丸みたいなパワハラ言動が目立ったから。それは私もしっかり当ブログで批判していたが。
あなたとハッピーでも、リスナーの怒りのメールをかつて紹介していた。ラジオでの一之輔の態度は悪すぎるというもの。
それをわざわざ読み上げるのを聴いた当時の私の感想は、「まあ、わからないでもないが」程度だった。
たが、わかるということは、その感性が肥大していく萌芽もすでにあったわけだ。

一之輔という人の、私の中での矛盾に一切気づいていなかったわけでもなくて、こんなのも書いた。
すでに5年前。当ブログは世間では今より遥かに小さい存在だった。

怒りの一之輔(上)

当時の当ブログが直接非難されていたわけではないだろうが、でもこの時点で、「この人は絶対でっち定吉ブログは嫌いだな」とは思っていた。
オレのほうはあなた好きだけどね、と。
今から思うと、互いに嫌いなほうがしっくりくる。

最近は批判もしてなかったが、水面下で一之輔離れは着実に進行していたのだった。

しかしまあ、世間から毒吐きブロガーと理解されることも多いでっち定吉が、なにを言ってるのだろうかという自己分析もある。
一之輔の毒が強すぎるのが徐々にダメージになった、その事実を世間に告白するなんてね。
でっち定吉は、自分自身では優しい世界観が好きなくせに、筆致は強い、そう思われても仕方ない。
当ブログは今や1日の訪問者900、1か月のPV55,000を誇っている。自分でいうのもなんだが、ちょっとしたものだ。
だが、でっち定吉の筆致の強さに離れていった読者も多数いるであろう、そのことは想像に難くない。
「毒が薄かったらでっち定吉も面白いんだけど」という人もいるのだろう、きっと。

とりあえず今日は思うところを吐いてみました。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

粘着、無礼千万、マウント等の投稿はお断りします。メールアドレスは本物で。