柳家小ゑん「鉄の男」
一席終えた前座がメクリを「古今亭駒治」に替えるが、慌てて戻ってきて「柳家小ゑん」にまた替える。
二席ずつやる場合、トリを取る師匠が最初に出てきて、仲入り後に順番が変わるのはよくあるパターン。
この前座さん、黒門亭でもメクリを替え忘れていたりしたのを目撃しているので、まあ、思い込みだろう。
この日のネタ帳も、トリの「トニノリ」を「トリノリ」って書いていた。
「戸に海苔」なのだけど、「取り海苔」と思い込んだんじゃなかろうか。意味は通じるのだが。
売れない前座は、寄席の定席ばかりに出ることになるもの。与太郎気質らしい前座さん、外の会に呼ばれるのは師匠方に可愛がられているからなのだろう。
まあそれはいいことだけど、落語が(まず古典から)普通に上手くなって欲しいものだ。
この日、出囃子はトリの小ゑん師(ぎっちょんちょんジャズバージョン)を除いてなし。
押尾コータロー? 爽やかなギターサウンドで入場していた。
小ゑん師は、ディープな会なのに、というか、だからなのだろう。
師の、もっとも普通に掛けるマクラから。
高座でもCDでも、何度も聴いて熟知しているマクラ。だがとても気持ちがいい。
ゲストの駒治師もそうなのだが、何度も同じ噺をしても気持ちのいい人と、「もういいよ」と思う人とがいる。
もういいよ、と思う人イコール嫌いな人ではない。でも、そうしたマクラを聴くと心底がっかりしてしまう。
この違いはなにかというと、語るご本人が語る内容に飽きていないということではないか。
先代圓歌が繰り返し中沢家を掛けても、決して客に飽きられなかった秘訣と同じだ。
近いうちに、このことについて「丁稚の落語論」で別途書いてみるつもりだ。
いつものマクラの内容は、「ムダに凝ったHPを作る落語ファン」「高座を録音している人」「秋葉原模様」などなど。
ムダに凝ったホームページを作るファンは、☆5つで高座の評価をしている。
そして、これは初めて聴いたが「やたらと文中に『粋だ』『オツだ』を使いやがって」。
機械的に同じマクラを振るわけではないところが、客が飽きない秘訣のようだ。
アキバからディープなオタクにつなげて、「鉄の男」へ。師の鉄道落語の代表作といっていいのだろう。
寄席ではいつも途中までやってるんですけどと小ゑん師。今日は私の会ですから、フルサイズで。たぶん、なにを話しているんだかわからない人も多いと思いますがと。
ネタ出しでないほうの一席だ。師のツイッターで、候補として挙げられていた噺。
昨年の川崎市民ミュージアムの鉄道落語会でも聴いたが、それは寄席サイズ「上」よりは長い、「上中」だった模様。
クニ坊とカゲッチがなにを語り合ってるかよくわからなくても、全然問題ない噺。オタクを楽しむ気持ちさえあればいい。
旦那がテツの女性など、ここで描かれるオタクの世界観、とても楽しいのではなかろうか。
そして目を剥いて語るカゲッチ、今日もバカウケ。
川崎の会では小学生に大ウケだったカゲッチだが、この日の年齢高めの大人たちにもウケるウケる。
私の持っているラジオデイズ版のCDに入っていないくだりがあった。
鉄道コレクションで部屋が狭いと、夫人から苦情を受けた主人公(クニ坊)、じゃあ、JRのコンテナを買って庭に置くか。引っ越しのときいいと。
主人公が、カゲッチに呼ばれて鉄道居酒屋「各駅停車」に出向く際の、地のセリフがなくなっていた。
私は落語たるもの、地のセリフを極力刈り込んだほうがいいと思っている。兄弟のような関係の、講談との大きな違い。
棒鱈における、2箇所の地のセリフもなくせるんじゃないかと思っているぐらい。
だから、進化して地のセリフがなくなっていた「鉄の男」、とても嬉しいのだが、いっぽうで場面転換における小ゑん師の地のセリフ、大好きだったことに気付いてややがっくりもしたりして。
まあでも小ゑん師、メルヘンぽい地のセリフだけ残そうとしているのではないだろうか。登場人物のセリフにして効果の変わらないものは、そうしようということか。
とにかく、噺は常に進化して留まるところを知らない。
そして「鉄の男」、バカな大人が活躍するが、単なるバカな噺ではない。
情感に満ち満ちている。この点、古典落語と一緒。
鉄道オタクの留まるところを知らない会話の数々は、新婚生活の悲劇を裏に隠している。
オタクであることを隠して結婚したものの、奥さんに実家に帰られてしまうカゲッチ。
結婚式を鉄道一色にしたばかりか、新婚旅行先のヨーロッパも鉄道の旅にしてしまうカゲッチ。実家に帰られても当然なのだが、そこに情感が漂うではないか。
カゲッチ、オタクだが、真岡鉄道の土手にレンゲの花を咲かせたりなど、秘めた感性の持ち主なのに。
まあ、大好きなカミさんより、京浜急行がもっと好きなカゲッチに救いなどないけど。