柳家喬太郎「ハンバーグができるまで」

千葉テレビの「浅草お茶の間寄席」、五年ほど前までは、ケーブルTVで欠かさず録画していたありがたい番組である。現在の環境ではTVKで視るしかないのだが、ちらつきが生じるので録画を断念していた。
出力アップしたのかなんなのかわからないが、久々に視てみたらよく映るようになっている。さっそく毎週録ることにしました。
最初に視たのが芸協の会で、出演者は「遊馬」「ぴろき」「寿輔」である。たまりませんな。

浅草演芸ホールの舞台中継という、ありそうでなかなかない番組。ホール落語である他の番組と違い、寄席の雑多な雰囲気がそのまま伝わってくる。
寄席の流れの一部を強引に切り取ったものだから、その日の全体の空気まではわからないが。

年始に特番があって、見逃していた柳家喬太郎師の名作「ハンバーグができるまで」を流してくれた。ちなみに、カップリングは三遊亭遊雀師の「十徳」。これも面白い。

柳家喬太郎師は、言うまでもなく、落語界随一の人気者である。
どういうところが客に響くのか。この「ハンバーグができるまで」からも、喬太郎師の「優しさ」「わかりやすさ」「視点の面白さ」「発想の豊かさ」「演技力」などがびしびし伝わってくる。
こうした要素に惹かれて、どんどん新規のファンが入ってくるだろう。そして、これらは見せかけの要素ではなく、本来的には喬太郎師の落語とファンを大事にする気持ちの表れだと思う。
だが、喬太郎師は毒を隠し持っている。まるっきり隠しているわけではなく、たまにチラチラ毒を漏らしている。毒に気づくのもよし、気づかないで楽しむのもよし。だからあらゆる層に響く。
談志のように毒を直接客にぶっつける手法もある。信者は喜ぶが、拒絶反応も大きい。
だが、喬太郎師はそこが上手い。毒を求める客にだけ届く毒を投げている。
客には、それはそれは丁重に接しておいて、そしてやりたいことをやる。

「ハンバーグができるまで」は、そうした隠れた毒を効果的に用いた「文学」作品である。
落語に文学的要素はあまりないと思うが、「ハンバーグができるまで」は立派な文学作品だと思う。
明治の頃、三遊亭圓朝が文学界に多くの影響を与えたが、落語自体が文学からなにかをもらってきたことはあまりないはず。
文学性のある古典落語というものは少ない。
喬太郎師の古典落語からも、文学的要素は特に感じない。だが、新作落語に時として文学的なものが見受けられる。
先輩で、文学を落語に持ち込んでいるのは三遊亭円丈師だけだ。「笑い」だけでない、人間の感性を深掘りしていくうちに、そこに文学が生まれる。
そして、落語の守備範囲の極めて広い喬太郎師、円丈落語の世界観はほぼ完全に引き継いで、さらに独自の文学的感性を付け加えている。

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「ハンバーグができるまで」は円丈作品と並ぶ、落語界において貴重な文学作品である。
「落語は文学でなければならない」などという気は毛頭ない。だが、そういう落語があってもいいじゃないか。

とはいえ、堅苦しい作品でもなんでもない。それどころか、喬太郎師の新作落語の中でも最右翼の、ギャグ満載噺である。
ギャグで散々笑わせて、最後の最後でほんのちょっとだけしんみりさせる。だけど、別にしんみりさせられることを望まず、笑いっぱなしで聴き終わっても、それは別に構わないと思う。
文学作品の、エンターテインメント部分にだけ興味を持ったっていい。
円丈師以上に、喬太郎師はお客に対するサービスの手を緩めることはないのだ。事実、いったんしんみりさせたあと、もう一幕ギャグが盛りだくさんに入っている。
客はちゃんと満足させておいて、本当に自分のやりたいことを、しっかりやってみせるのが喬太郎師。

リオ五輪の頃の高座なので、「文系オリンピックがあってもいい」「文系オリンピックに落語家の団体が日本代表で出て、リトアニアあたりに負けたら嫌だ」などという楽しいマクラから。
ちょっと空気を替えて、「夕暮れ時の情景が好きだ」という話から、夕方の活気づいた「商店街」での買い物はいいですねと前振り。
楽しいマクラから、やはり楽しい本編に入る前に、さらっと夕暮れの情景を描写するセンスが素晴らしい。本当にさらっとだから、流れは切らない。

本編冒頭で、「こういうふうに入ったところを見ると、今日は古典じゃないな」。
高座から大きくはみ出る所作をしておいて、「おかみさん、カメラから外れます」。
手拭いでハンバークを食べる所作を見せておいて、「手拭いじゃ食べにくそうね」とツッコミ。
こういう、メタフィクション的な噺の作りが実に上手い。喬太郎師か、三遊亭白鳥師かというところ。新作派ではないが、こういう、噺が載っているステージのレベルを自由に出し入れするのが得意だったのは、立川談志。
ただの思いつきのギャグではないだろう。これは落語なんですよ、笑っていいんですよという、客に対するメッセージだ。
するとどうなるか。客は、安心してその世界を眺めることができる。少々の矛盾など気にならなくなり、むしろ自ら進んで、ギャグだらけの噺の中に、整合性を見出し始める。

ふだんコロッケなどの総菜しか買わない主人公が肉屋で合挽きを買ったので、心配して探りにくる商店主たち。
いきなり訪ねてきた、元妻に指示されて、主人公は普段買わない肉・野菜を買いにきたのだ。絶対に食べない、大嫌いなニンジンまで買っていった。
元妻が、主人公のためにハンバーグを作るのだという。
買い物に対応する商店街のメンバー、破天荒な人物ばかりである。
だが、噺の中で浮いていることはない。喬太郎師から発せられる、「落語なんですから」というメッセージにより、笑いっぱなしのストーリーから、商店街の人たちの主人公に対する温かい目線であるとか、野次馬趣味であるとか、様々な、人間の純粋な側面があぶり出されてくる。

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喬太郎師、新作落語を掛けるときは、古典落語と、がらりとアプローチを変えてくる。
落語が好きで好きで仕方ない人であることを考えると、アプローチを変えるやり方はいささか不思議な気もするのだが、古典落語には、愛する先人たちの業績があり、変えてはならない聖域を感じているものか。
古典落語では、柳家伝統の芸を面白く消化するが、決して噺を壊すことはない。壊して面白いタイプの噺家さんもいるが。
いっぽう、新作落語では、円丈師の影響を大きく受け、なんでもありの世界観を提示する。
どちらか単独でも超一流である。これにプラスして、先日取り上げた「擬宝珠」のように、埋もれた噺の発掘までしているのだから、いやはや。

落語というもの、特に古典落語において、キャラクターはだいたい噺のためだけに存在している。
古典落語においても、人物を立体的に描く工夫がなされないわけでは決してない。だが、噺の枠組みを離れた、「八っつぁんの普段の生活」というものを想像しても、それほど意味はない。
余計なものが刈り込まれていき、軽くなったのが古典落語の世界。だから古典落語の登場人物は記号である。

だが、古典のときとまったく異なるアプローチで迫る喬太郎師の新作落語、登場人物のキャラがみな立っている。
この登場人物たちは、決して落語のため、主人公のためだけに存在しているわけではない。ひとりひとり、自分の人生を生きていることが想像される。
こういう登場人物たちが複合的に交叉する世界の中で、ある部分を切り取って落語にしてみせたのが「ハンバーグができるまで」なのだ。

満載のクスグリと繰り返しギャグの中に、ふっと美しい描写がある。
主人公が、元妻の待つ自宅に帰る。
「卵、赤いほう買ったね。このほうがいいな」など、聞き逃してしまいそうなセリフだが、しっかり生活感が描かれている。
このあたりは、さりげなく古典落語の技法を持ち込んだものだと思う。古典落語の登場人物は、記号的に描かれる一方で、噺の中では立体的な描写を求められる。古典落語には、本筋と関係なくギャグでもない大事な一言、というのが結構多い。

高座の途中で、客の携帯が鳴るハプニング。
TV中継が入っているとわかっているのに、まったく浅草の客は仕方ないな。
最近の高座では、鳴った携帯をどう処理するかが噺家の技術みたいになってきた。本来は欲しくない技術だが。
先日新宿で観た、菊之丞師の処理も上手かったが、噺の載ったステージを自由に出し入れできる喬太郎師、さらに処理が上手い。
主人公と元妻の会話中に「電話だよ」と言って手拭いを広げ、指で押す。「電源切った」。場内爆笑。

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寄席のトリで掛けた「ハンバーグができるまで」。既存の音源より時間が短く、小股の切れ上がった作品に進化している。
クライマックスの元妻とのやりとりも短めになっているが、それゆえにいっそう、さりげなくほろりとさせられる。
古典でも新作でも、噺が短くなるときは、だいたいにおいてそれは進化である。ムダを削ぎ落し、大事なポイントを強調するという。
ギャグだって、多ければ多いほどいいかというとそんなことはない。客を疲れさせると後半尻すぼみになるのである。
噺家さんは結構、ホームグラウンドである「寄席で掛けられる」ことにこだわる。ホール用に大ネタをおろしても、次にやる機会がないとものにならないし。
喬太郎師の師匠、さん喬師も常にそういう努力をしているそうである。

もっとも喬太郎師の噺、ふんだんにギャグが入っているが、それほど疲れない。
ただのクスグリではなくて、ストーリーを進めていくための材料になっているからであろうか。演劇のように「次どうなるんだろう」と思いながら笑わされるためのようである。
これは論じる価値があるが、またの機会に。それに、古典の場合はストーリーはみんな知っているから、どうしてもクスグリとしかいえないものになるし。

「文学的」だという表現を強調し過ぎたかもしれないが、「人情噺」であるといえば、既存の落語の枠組みの中で理解しやすいのでは。
「人情」とは、主人公と別れた妻との関係であり、さらに商店街のメンバーたちの思いやりとおせっかい(+野次馬根性)である。
しかし人情噺だとしてその骨格は、たまに顔を出すものの、ギャグで進行される噺の背景に注意深く隠されている。
そして、クライマックスに、一瞬だけ浮上してくる。

ハンバーグを作ってくれた元妻と話をする主人公。元妻が、なにをしに来たのかわからない。
ハンバーグができるまで、好物の赤玉を飲んでほろ酔いの主人公、元妻に向かい、「よりを戻せたらな、と考えていたところに訪ねてきた。気持ちが通じたのかな」などと口に出す。
主人公は、なにも考えていない男である。
元妻のほうは、再婚することにしたので、きちんと顔を見て報告したかったのだという。しかし主人公は、再婚すると聞いてからも、「俺と?」などと呑気なことを言っている。
妻は、格別思わせぶりな態度などしているわけではない。主人公が勝手に、元妻への未練を噴き出させてしまったのだ。
そして、決して人から嫌われる程度ではないのだが、その自己中心的な性格、その思いやりの欠如等が、元夫婦の会話から浮かび上がり、離婚の背景も想像させる。
主人公は「特になにがあったわけでもなく別れた」と言っている。だからよりを戻せるかもという期待があるのだが、元妻からしたら、そうではあるまい。
ひとりではなにもできない主人公、自分でも理解していないが、今でも元妻に求めるものは身の回りの世話なのだ。
そして、妻が作ってくれた付け合わせの「ニンジンのグラッセ」にも、食わず嫌いで手を付けようとしない。

決して楽しいエンディングではないのだが、しかし単なる悲劇として終わらせないのが喬太郎師。
最後までギャグ満載で、お客に生々しい悲劇をぶつけないよう腐心している。
むしろ、悲劇のほうを、滑稽噺における毒として、スパイスのように見せている。
「大笑いしたなあ」と家路につく客もたくさんいたのではないか。

サゲは柳家らしく、しっかりお客のほうを向いて言い、頭を下げる。
落語のサゲというものはさして重要ではない場合が多い。重要なサゲの噺もあるのだが、この場合、サゲのために落語自体が存在している場合が多い。
「ハンバーグができるまで」のサゲは、どちらでもなく、珍しく自立している見事なサゲである。
やはり文学だ。

続編:柳家喬太郎のハンバーグまつり

作成者: でっち定吉

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