毎日更新している当ブログ(※ 旧Yahooブログ)の日々の訪問者は、最近ちょっと増えて、30~40人程度である。いつもありがとうございます。
ところが日曜日、日中から50を超える勢いで訪問数が伸びた。なにが起こったのかわからず、不安におののいていた。
普段の日は、当然ながら最新記事についてのアクセスがいちばん多い。その日にアップしたのは、噺家の政治的言動を批判した内容だったので、さてはあの流派の狂信的なファンが、「こんなこと言ってるやつがいますぜ!」とどこかに私のブログのリンクを張り付けたのではないかと。
炎上を批判したブログが炎上したらバカみたいですね。
この日の訪問数は結局87と、過去最高。
翌日になってアクセス解析をしたところ判明したのであるが、NHK「日本の話芸」で流れた柳家喬太郎師匠の「ハンバーグができるまで」で検索して当ブログに押しかけていたのであった。放送直後からアクセスが集中したようだ。
最新の記事は普通のアクセスであった。
ひと安心するとともに、メディアの威力を実感しましたね。といっても、人気の噺家さんでなければこんなことはないだろう。
土曜の再放送の後は、またアクセス増えるだろうか。
ハンバーグまつりはまだ続いている。月曜の訪問者こそやや減って73だけども、PV数がさらに増え、日ごろの倍を軽く超えていた。
ただ、気になったのは検索ワードの中に「ハンバーグができるまで サゲ」とか、「ハンバーグができるまで オチ 説明」などというのが目立ったこと。
少なくない数の人が、名作のサゲの意味がわからず頭を抱えているらしい。
私のブログに来てくれたのは嬉しいのだけど、サゲの解説以前にネタバラシもしていないから、目的は達せられなかったろう。
野暮だから書かないというのもあるが、そもそも落語のサゲというもの、一般の人が思うほど重要なものではない。
「ハンバーグができるまで」の文学的なサゲは確かに優れたものだと思う。
だが、初めて聴く新作落語で楽しんで、サゲだけ忘れてしまうなんてのもごく普通の経験。サゲを忘れたからといって楽しみが消えるわけではない。
「落語はサゲに向かって一直線にストーリーが進んでいくもの」というのはありがちな誤解だ。
「目黒のさんま」みたいに有名な噺がそういう骨格になっているためだが、ほとんどの噺のサゲはどうでもいいもの。
「ここで噺は終わりですよ。冗談にお付き合いくださってありがとう」という機能を果たすだけのサゲがほとんどだ。
上方のほうが、まだ若干サゲにこだわるかもしれない。寄席の伝統の長い東京では「冗談言っちゃいけねえ」の冗談オチでも成立してしまう。
だからなのか、桂枝雀は「サゲの分類」というものに取り組んだ。しかし、壮大かつ不毛な仕事であったと思う。
「サゲがわからなくて悩む」のは非生産的なのであるが、わからないと噺のすべてが理解できない気がして不安になるのだろう。
以前、ひと様のブログで、地方の落語会をレビューした人が、「○○師匠の◎◎という落語は、****というオチの噺でした」と、古典落語をサゲだけ数本紹介していたのを読み、なんだかなあという気分になった。
この人にとっては、サゲを紹介することが、落語について語ることなのだ。なんというか、「JR横須賀線というのは久里浜まで伸びる電車です」と言っているような。
「次は終点、久里浜」のアナウンスに、鎌倉や逗子とは違う重要性があると思っているなら滑稽である。
喬太郎師もよくやる古典落語「そば清」に、古いスタイルで、何のフリもなくいきなり「おそばが羽織着て座ってました」とサゲる型がある。
これがわからなくて悩むというなら、まあ理解できなくはない。
「考えオチ」というサゲ方だが、あまりにも不親切なため、昔から謎を解いて提示するサゲ方もある。
謎解きしてしまうのもなんだなあというので、喬太郎師は謎解きは入れずさらっとヒントだけ出す。
いっぽう、「ハンバーグができるまで」のサゲは別に「考えオチ」ではない。これがわからないというのなら、落語を聴く以前の問題だろう。
日ごろから小説や映画、マンガやドラマだって構わないので、あらゆるメディアの様々な作品に対して文学的感性を研ぎ澄ませている人なら、なんてことなしに腑に落ちる見事なサゲだ。
そうやって聴いていれば、各人の持つツボにスポッとはまらないにしても、じわじわ沁み入ってくるだろう。
サゲの機能面から考えても、サゲがわからないと噺全体が理解できないというものでもないし。
サゲが腑に落ちなかった人は、なにか自分がわからない落語の作法にのっとった、隠しオチなのだと思い込んでしまったのか。
残念ながら、落語を聴くには不向きのようだ。
主人公まもるちゃんの感性と同じだ。リアルまもるちゃん。
落語が特殊なメディアに属するものだからではなくて、たぶん、落語以外のどんな作品を見てもよくわかっていない人たちだと思う。
作品自体が、自らわかりやすい説明をしてくれると思っていたら大間違い。作品から感動を得るためには「腑に落とす」という受け手の感性も必要なのだ。