ひどい新作落語のダメージを解剖する(下)

古典落語ちりとてちんの気持ちいい部分を持ってこれないのは、パロディ落語の登場人物が全員嫌な女だという点に現れる。
誕生日を祝ってやろうというのに、その当人は、別れた男をヨリを戻したのでドタキャン。これは料理が余った理由付けのためだけなので電話でしか登場しない。
隠居役を務めるOLも、調子いい後輩女も、なんだか嫌な奴。
嫌な奴であることが狙いならそれでもいいのだが、意味なく嫌な人間たちである。
そういえばこの人の落語に出てくる人、みなそうだなと思った。
それを当人、「等身大の女性を描く落語」だと言い張っているようなのだが。
フルーティな日本酒を「ワインみたい」と言って飲む女は確かにうっとうしい。噺の登場人物が言う通り「ならワイン飲んどけよ」となる。
それを皮肉る視線は「あるある」だろう。
だけど、等身大の女性を描く落語の先輩、桂あやめ師匠の落語に出てくる登場人物は、もっとずっと魅力的だと思う。
この差は大きい。思わず皮肉りたくなる対象の中に、魅力を少しも見出せない落語。
作者兼演者が、登場人物を魅力的に描けていないのだ。

古典落語の登場人物は、すべて記号である。いい人物も悪い人物も、その了見というものは記号化されている。
だから聴く側も真剣に、いい人間かどうかなんて考えなくて済む。古典落語ちりとてちんの隠居のことを、実はいじめをする嫌な老人だなどと思って聴くことはない。
記号どうしのやり取りから、気持ちよさを引き出すのは聴き手の自由。
この噺家がしていることは、落語から記号性を奪い、人を不快にさせる余計な情報を付け加えることに過ぎない。自殺行為。

古典落語ちりとてちんの終盤に登場する、寅さんとか六さんとかいう嫌味な野郎も、嫌味な点は記号に過ぎない。
聴き手が、「なんて嫌な野郎だ」と真剣に思ったとしたら、それは恐らく演者が未熟なためである。
この噺が通常、聴き手に対してもたらすのは、「ああ、いるね、こんな人」程度だと思う。
別にちりとてちんは、「本当に嫌な奴をやっつけてスカッとする」噺ではない。そんなレベルの低い噺なら、暑い時期に寄席で取り合いになるわけがない。
登場人物が記号化された古典落語は、表面的な人間の善悪など超越している。

ちりとてちんのパロディのほうには、最後に本当に嫌な女性が出てくる。
本家古典落語の寅さんのような、どこかに愛嬌を漂わせる人物ではない。あり得ないほど嫌な女。
パロディ版は、真に不愉快な女に腐った豆腐を食わせてガッツポーズというだけの噺である。
これを古典の劣化版と言わずして、なんというか。
ただの嫌な女を噺に登場させる、作者の了見のほうが私は嫌だ。

もっともこの嫌な噺を、仮になにかの義理でもって三遊亭白鳥師が掛けたとする。そうするとたちまち爆笑ものになるだろうことも想像がつく。
白鳥師の落語に出てくる登場人物は、すべてが魅力的だからだ。
白鳥師なら、登場人物のうちぶりっ子の後輩女は、徹底したマンガ的造型にするだろう。
隠居役の先輩は、キレのいいツッコミ専門にする。たまに、噺の外に出て、メタ的ギャグを発する。
そして、最後の本当に嫌な女に、徹底的にスキを残す。スキがあると、「嫌な奴」という記号はそのままで、とても魅力的な人物になる。

つまり演出面にも、落語の観点から見て問題があるということ。
まあ、この女流は古典落語からやり直す時間もないし、これ以上の伸びしろもない。
幸い、この下に多数いる女流落語家はみな、この人を追いかけてはいない。新作派であっても、古典をきちんと内面化する作業に余念がないようだ。
その結果、新作も古典も、両方がウケるようになってくる。
古典は間違いなく新作の役に立つが、逆もまた真になる。創作力が古典落語に活きるのだ。

長文になったが、思いを全部文字に起こしたおかげで、すべてスパッと割り切れた。
私のほうは、これでようやく救われました。

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作成者: でっち定吉

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