続・先代柳家小さんの名誉回復

棒鱈

以前、「てんてこてん」こと「棒鱈」について続きものを書いた

「棒鱈」は、先代柳家小さんが練り上げた噺で、今でも、柳家の噺家さんを中心によく掛けられている。しかしながら本家本元、小さんの音源が聴けなくて残念だったのだ。
おかげさまでこのたび、小さんの「棒鱈」を入手できた。
これがまた、素晴らしい。小さんらしく、軽くてさらっとしていて、人間がいやらしくなく素敵に描かれている。
初午も近いことであるし、これにつき筆を割いてみます。

「ご酒家のお話でございます」と、酒癖のマクラから。
親子酒など、他の酒の噺でも使う「上戸」のマクラ、それから「もしも酒でなく甘味で酔っぱらったら」という定番である。
個人的には、「棒鱈」は、「田舎侍をトリックスターとして描く」噺であって、酒のマクラから入らないほうがいいのではないかと思っている。
でも、小さんがこういうマクラの噺に設定したから、後進はみなそれに倣う。もっと独自の発想をしてもいいのに、と思うのだが。
そんな小さな不満はさておき、このマクラが大変おかしい。
現代の噺家さんの、個人的な日常を面白おかしく話すマクラはイヤではない。だが、こういう定番マクラでしっかりウケる芸を聴くといろいろ考えさせられる。
弟子のさん喬師や市馬師も、現代風マクラも導入している一方で、しっかり手垢のついたマクラも掛けて笑いを取っている。やはり師匠リスペクトだろうか。

テンションを上げないままさらっと本編へ。二人の酔っ払いの描写から。
べろべろなほうは、だいたいの噺では弟分として描かれる。そのほうが描写が楽なのだろう。小さんの「棒鱈」では、わりと対等っぽい。
この小さんの酔っ払い、べろべろだが、酔っ払い特有の嫌らしさが皆無だ。
しっかりべろべろなのに、大変軽い。女中に悪態をついているが、嫌な感じがしない。
これ、現代に真似できる噺家がいるだろうか。「馬鹿!」と一言いうだけで、もういやーな感じが漂うではないですか。

女の描写が不得手で、女の出てくる噺自体あまり掛けなかった小さんだが、「棒鱈」の女中や芸者は悪くない。ちゃんと色気があって品がある。
小さんの「棒鱈」だけでなく、「転宅」も入手できたのだが、このお妾さんも悪くない。
実はできるのに、芸への理想が高くて女をやりたがらなかったことが想像される。幸い、男しか出ない噺も落語にはたくさんあるし。

そして、田舎侍へ。
これもまた、まったく嫌味がない。こんな田舎侍だったら、もしかして地方で掛けても嫌がられないのではないかと。
芸者の困り顔でウケさせるのではなく、人物そのもののおかしさが軽く伝わってくる。
「棒鱈」を、浅黄裏嫌いの江戸っ子の心境になぞらえる解説が多い。それはその通りなのかもしれないけど、小さんの嫌味ない田舎侍を聴くと、本当にそういう噺なのか疑問に思わされる。

田舎侍を徹底してマンガっぽく描くのが、多くの「棒鱈」の演出。
その部分こそ噺のツボであって、「棒鱈」が「酒呑み」の噺ではないと思う理由である。田舎侍を強調する演出の方向性自体、まったく間違っていないと思う。
だが、マンガっぽく描きすぎると、田舎侍は、この世の外からやってきたただのエイリアンになってしまう。
江戸っ子にとってもともと、浅黄裏はエイリアン的な存在であったのかもしれない。だが、小さんに掛かると、田舎侍もちゃんとこの世の一部に存在している等身大の人間となる。
でも、常に陽気で鷹揚。遊び方は洒落てはいないが、洒落を解する気風である。これがちゃんと客に伝わるから、エイリアンとして描かなくても噺はずっと楽しいまま。
酔っ払いが座敷に転がり込んできても、「人間の降ってくる天気ではござるめえに」と、まだまだ鷹揚。

登場人物のすべてが軽い、先代小さんの「棒鱈」。
「軽い」のだが、一方で存在感は非常に大きい。町人二人組も田舎侍も、また芸者も、もともと人間自体が気持ちいい存在なのである。
こういう芸を「軽い」としか表現できない、ボキャブラリーのなさを痛感する。なにも私だけのことではなく、プロの評論家にも、噺家にもこのボキャブラリーはない。
小さん落語は、既存の言語体系の上位にあるらしい。

こういう完成された噺を残された、後進の噺家も大変だ。
談志や小三治は、小さんがスタンダードを作ったのだという。基本的なスタイルとして、このとおり演じればウケるありがたい型を作ったと。
そうかな。
実際のところ、このまま演じたって全然ダメだろう。ただの劣化コピーになってしまう。なにせ、演じる人間の器において、まず小さんにかなわない。
圧倒的な高みにある芸を残された後進は、至高の芸に触れられた幸せとともに、一生到達できないあきらめも持たざるを得ない。
そして、自分自身の演出を見つけようとすると、どこかを強調してクドくやらざるを得なくなる。
例として、先の「人間が降ってきた」シーンなど、小さんが強調していない部分でウケを取ろうと頑張ってしまう。
そうやって苦労して芸を作り上げても、「生きている噺家」だから世間にアピールができる。だが、残された小さんの音源と同じ土俵で勝負させられたら、あっさり弾き返されてしまう。

「女の噺ができない」とか、「戦争でみんなライバルが死んだ」などと小さんを貶める発言は、一歩下がって捉えてみると、非常によくわかる気がする。
神の目からではない、人間目線のフィルターを通してからでないと、自分自身にその芸の一端すら取り込めないのだろう。

言訳座頭

続けてもうひとつ、先代小さんの噺を。
「言訳座頭」は、今大人気の「掛取り」と同じく年末の借金取り撃退噺である。
この類には、他に「睨み返し」がある。
小さんは、「掛取り」はやらなかったが、「言訳座頭」と「睨み返し」を十八番にしていた。
「掛取り」は、なんでもいいのだが噺家さんの「飛び道具」が必要な噺である。現代で、柳亭市馬師が相撲甚句を入れたりするような。
圓生のものが有名だったため小さんは「掛取り」をやらなかったのかもしれないし、単に飛び道具がなかったのかもしれない。
もっとも、「言訳座頭」も「睨み返し」も、それぞれ大変難しい噺である。「睨み返し」については、談志が、師匠小さんのもっとも好きな噺だと語っている。

「言訳座頭」は、「按摩」と「時季限定」という、やりにくい要素ふたつに挟まれているから、そうそう聴けない。数年前の年末に、柳家小里ん師匠のものを鈴本で聴けたのは幸せな体験であった。
老按摩の、江戸っ子のきっぷを楽しむ噺である。
落語を聴いて間もないような人には、どこを面白がったらいいのか、ちょっとわかりづらい噺かもしれない。
上方の落語好きにもわかってもらいづらそう。
そして、「睨み返し」のようなビジュアル面のわかりやすいツボもない。だが、いったん江戸っ子を感覚的に理解できれば、もうどうにもたまらない噺。
借金の言い訳を依頼する甚兵衛さんのほうは、狂言回しですらなく、影が薄い。どれだけ勝手なことを言われても、一切反抗もしない人だ。「なんか言っちゃダメだよ」と言われて、本当に黙っているのが「壺算」などと違うキャラ。
おかみさんに尻を押されて甚兵衛さん、1円持って、口のうまい、按摩の富市のところに借金の言い訳依頼に出向く。
このおかみさんもいい。「小さんは女が苦手」ということになっているし、ご本人もそう言っていたのだが、本当かなと思う。
弟子の小里ん師に言わせれば、「長屋のおかみさんは苦手にもしていなかったし、結構よかった」とのことだ。
だが、このおかみさんで笑いを取りにはいかない。噺の前半でウケさせないという実践である。客がくたびれるし後半ダレるから。

頼まれた富市、気持ちよく引き受けて、甚兵衛さんと連れ立って借金の言い訳に廻る。
「うちで待ってちゃダメだ。こっちから行かなきゃ」と。
米屋から。
富市、考えながら言い訳を始める。この言い訳が、本当に「相手の様子をうかがいながら今考えて喋っている」態なのでリアリティがある。落語は、「台本を覚えてその通り喋る」芸とは違うのだ。
最初は丁寧に頭を下げているが、ラチが開かないとなると「なにも貧乏人から取ることはない。『待ってくれる』っていうまでここに座って動かない」と乱暴なことこのうえない。
相手が根負けすると、途端に愛想よくなり、しかし長居せずにとっとと立ち去る。

この場面が終わっても、笑いはほとんどない。改めて、じっくり聴いて驚いた。
噺に没入していると、「笑いがない」ことなど一切気にならないのである。終始楽しいので。

「言訳座頭」では、甚兵衛さんの借金の言い訳のため、三軒の商店を廻る。
三軒というのが、落語らしくメリハリが効いてていい。「小言幸兵衛」や「片棒」などでも、「3」という数が噺を引き締めている。そして、2つ目が噺のハイライトである点も共通。

一軒目の米屋は、按摩の富市の客ではなかったから、まだやりいい。
二軒目の薪屋はいつももみ療治に呼んでくれている。
だが江戸っ子の富市、甚兵衛さんに頼まれた以上、全力でことに当たらねばならない。なにも1円もらったからというのではなく、頭を下げられたのだから。
富市、考えながら、甚兵衛さんの借金に関係ない、炭がはぜ、畳が焦げて困ったという話から持っていく。こちとら目が見えないんだから不人情なことをしてくれるなと。
そこから、「つきましてはこの甚兵衛さんの借金を」。
だがこれは失敗。
薪屋、甚兵衛さんの借金は待たないと宣言し、だが富市に、炭がはぜて焦がした畳はそっくり替えてやると。
薪屋も立派な江戸っ子である。江戸っ子と江戸っ子の意地のぶつかり合いだ。
この部分、明らかに噺の肝だが、いったいなにを描いているのか、わからない人にはたぶんなんだかわからない。
富市、やむを得ず群衆に聴こえるように「さあ殺してくれ! 今、按摩がひとり殺されるんだ!」。
これで見事借金の言い訳に成功するが、人の集まった気配を感じて「見せもんじゃねえぞ。どけどけ」というのがやたらおかしい。

甚兵衛さんにも頼まれた義理があり、出入り先を失うわけにもいかない富市だが、結構やりすぎた。
だが、そこはカラッとした江戸っ子だ。薪屋の出入りを失うこともあるまい。
それに、成功したら、途端に腰が低くなるのだ。

三軒目の魚屋は、さすがの富市も、「あそこでさあ殺せ!」なんていったら本当に殺されちまうと。で、別のやり方を考える。
喧嘩の好きな「魚金」は、「掛取り」にも「睨み返し」にも出てくる、借金取りには欠かせないキャラクター。
甚兵衛さんが体を壊して・・・と、人情ものに持っていく。やがて自分は死んでいくが、魚金の借金を返さないと死んでも死にきれないんだと言うので、自分が出てきたと。
魚金も江戸っ子。つくり話を信用はしてないようだが、富市に免じて借金は待ってやることにする。ただし、元気そうな甚兵衛さんの一体どこが病気なんだと逆襲は忘れない。

サゲは「睨み返し」と同工。とってつけたようなサゲなのだが、じわじわ楽しい噺には決して悪くない。

たびたび当ブログで引用させていただいている「五代目小さん芸語録」で小里ん師は、「噺をそっくり覚えておかないで、大筋だけ抑えておいて考えながら喋ると実に楽しい噺」だと語っている。
小さんもこうやって掛けていたのだろう。数は掛けていない噺で、毎回細部が違っていたらしい。富市が言い訳を考えながら喋っているリアルさは、たぶん本当に考えているから生まれるものなのだ。
「睨み返し」のように爆笑が取れるものでもなく、儲からない噺だが、それはそれ。いろいろな噺があるから落語は楽しい。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。