1月31日の昼間に、落語を聴きにいく時間を作った。どこに行きましょう。
基本的に、月の31日には寄席の定席はない。「余一会」をやっていることが多い。この日の夜席は、鈴本は「落語教育委員会」。浅草・新宿・池袋は、「昭和元禄落語心中」のコラボ企画。
だが昼席については、池袋と浅草は「余一会」でなく、定席だった。余一会の企画がないときに、21日から始まる「下席」を、31日まで延長してやっていることはたまにある。
私は「寄席」が好きなので、むしろこちら、定席に惹かれてしまう。「寄席」というものは、単に会場を指すことばではなく、落語界における「システム」である。
ただ、昨年落語協会の席でハイレベルの満足をたびたび味わえたので、今年は落語協会以外を積極的に聴きたい。
悩みに悩んで、新宿末広亭の余一会昼席、「兼好・王楽二人会」を聴きにいこうと一瞬新宿に向かいかけたのだが、これも結局ホール落語に過ぎないと思い直し、途中で電車を乗換え、着いたところは御徒町。久しぶりに「上野広小路亭」へ。
こんな日に、我ながら渋いチョイスだと思う。
この日は定席ではなく、さまざまな団体の芸人が出演する「しのばず寄席」である。ただこの日に関しては、バイオリン芸人の「福岡詩二」さんを除いては芸協メンバーであって、月の前半に広小路亭でやっている、芸協の定席とほぼ同内容。主任は昔昔亭桃太郎師。
値段も、定席と同様、2千円と安い。
シルバー料金は1500円。時間の自由な年金暮らしのお年寄りが集結していて、昼間から大入りだ。だが、椅子席が混んでいて、前部の座椅子席は不人気。やはり腰が痛いですか。
上野広小路亭には、過去に芸協の席にも、「しのばす寄席」にも、立川流にも足を運んでいるのだが、ずいぶんご無沙汰した。何年振りであろうか。
久しぶりだが、この狭い演芸場が大変落ち着く。新宿や浅草より、よほど居心地がいいのは不思議である。
私は今、「寄席好きをこじらせたファン」への入口付近にいるようだ。
「このまま入りこめばいいや」「むしろ入りたい」という気持ちと、「つまらない落語こそ面白い」というこじらせ路線を突き進んでなんになる、という疑問とがせめぎ合っている状態。
「つまらない落語こそ面白い」まで行くと、いささかこじらせ過ぎだと思うが、実は一理はある。すばらしい落語は、TV、CDで聴けばいいともいえるのだから。
むしろ現場では、CDを出せない噺家さんの、それでも実は楽しいところのある芸、というものを見つけて味わうほうが面白いのではないかと。
「ライブ絶対派」でないがために、かえってライブの本質が見抜きやすいということも、ないとはいえない。
全部間違いかもしれない。
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上野広小路亭の「しのばず寄席」のラインナップ。
全太郎 / 子ほめ
吉幸 / 元犬
遊之介 / 湯屋番
福岡詩二/ 大正演歌(バイオリン演奏)
南なん / 鼠穴
(仲入り)
松鯉 / 雁風呂の由来
マグナム小林
桃太郎 / 春雨宿
桃ちゃんを寄席のトリで聴くのも久々である。
大好きな師匠だが、NHKでよくお見かけすることもあり、なんとなく、その全貌がわかった気になってしまっているのである。
わかった気になっていると、これ以上の刺激はもらえないのではないか。これが行き先を新宿あたりと迷った理由のひとつ。
しかしこの日は、いい意味で裏切られました。
いつものように、とりとめのない爆笑マクラから。この日は、東条英機が贔屓筋にいた、先代桃太郎のネタなど。
「せこい茶碗だね。田舎の公民館じゃねえや」もちゃんと入っている。
実はマイ茶碗なのだが、客席のお年寄りたち、そんなことは先刻みな承知の様子。
やはり初心者が迷い込む席ではないようだ。
ちなみに、昨日貼った広告で、桃ちゃんが手に持っているのがこの茶碗。
ここでハプニング。
最前列に座っていたおじいちゃんが、やおら立ち上がってふらふらと帰り支度。
鈴本の最前列で帰り支度するのとは違うのである。広小路亭の座椅子から立ち上がると、完全に後ろの客の視界を塞いでしまうのだ。
桃ちゃんさすがに声を掛けて、「さっきから、なんかもそもそしてると思ったんだ。お帰りかい」。
あろうことが爺さんが立ったまま答えて、「帰んだよ、俺、茨城なんだ。遅くなっちゃった」。
会話が始まってしまった。
「気をつけてお帰り」「俺の友達はみんな死んだよ」「爺さん、戦争行ったのかい?」
爺さんもとっとと帰ればいいのに、立ちふさがったまま、「行ってないよ。もう戦争終わって71年経ってるんだから」
ハプニングといえば面白いハプニングなのだが、落語にとってはアクシデント以外のなにごとでもない。
桃ちゃんも、いささか憮然とした様子。
空気を変えるため、ここでマクラをスパっと切って、「春雨宿」本編へ。
人情噺ではないから、邪魔が入っても立て直せないことはない。だが、演者には思わぬ負担であったと思う。
しかしここからちゃんと取り返す。
桃ちゃんも少々頭に来たのか、アドリブで「田舎だね。茨城ほどじゃないけど」と二三回茨城ギャグを入れていた。
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落語というもの、しばしば客席で鳴る携帯電話もそうだが、生の高座では数々のハプニングがある。
それだけでもう、落語はぐずぐずになってしまうものである。まともに座っていない客というものは、本当に罪作りだ。
しかしそんな不測の事態でこそ、演者の強い心臓がものを言う。
さすが我らが桃ちゃん。
「春雨宿」は、桃ちゃんしかやらない、ひと昔前の新作落語だが、個人的には何度も聴いている噺。
だが面白い。意外とではなく、やたらと面白い。
なにが面白いのかというと、目の前で面白い師匠が面白い噺をしているから面白いのだとしか言えない。
私は、「ライブ絶対主義」ではない。落語がライブの中にしか存在しないなどと思っていないから、CDやTVの録画でも、ちゃんと楽しむ。
しかしこの日はライブ、しかも狭い空間での話芸の威力を、改めてまざまざと思い知りました。
実に幸せな気分で家路につけた。
順番を戻って、仲入り前の桂南なん師匠。
異相の噺家、南なん師匠をお見かけするのも本当に久しぶり。
何年前だったか? 東長崎の地域寄席に、柳家喬太郎師との二人会を聴きにいったことがある。
昔のほうが、東京かわら版を見て、いろんなところに出向いたものだとそんなことを思い出しながら、「どうぞゆっくり寝てください」という南なん師匠の優しい?マクラを聴く。
そこからなんと「鼠穴」に入っていった。「なんと」って私が勝手に意外に思っただけなのだけど。
こんな愉快な顔の人が、人情噺など掛けていいのだろうか。いや、別に掛けてもいいけど、損するのでは?
そう思ったこの「鼠穴」に思わず涙ぐみました。特に、夢から覚めたあと、主人公が心底ほっとするシーンに、いよいよぐっと来た。
これだけ感動させられた「鼠穴」も初めてだ。
落語というのは本当に不思議な芸だ。
この鼠穴、特にオリジナリティのある部分はなかったのである。「テキスト」なんていうものはもちろんなくて、せいぜいが圓生の速記だけども、そのテキスト通りの落語。
その落語のどこがすばらしいか、これについてはそれほど説明が難しくないと思う。要は南なん師、主人公の気持ちをひたすら忠実に表しているだけなのである。「ああ夢でよかった」と肚から感じて演じている芸なのだ。
夢から覚めることをわかっていて首をくくる奴などいない。いよいよダメだと覚悟して、無念の中で首をくくるところにリアリティがあり、その後、本当にほっとしている心境が感動を呼ぶ。
「泣かせよう」なんて了見では演じていないはずである。
もっとも、口で言うのは簡単だが・・・皆ができる技術ではないからこそ、すばらしい。
ちなみに、南なん師の朴訥な喋りが、田舎者が主人公の「鼠穴」にはぴったりであった。なるほど、こういうニンに合う人情噺もあるのだ。
兄貴なのに弟に「さすがおらのせがれだ」、鼠穴から蔵に火が入ったシーンで、「蔵が出てるだ」、と言い間違えもあった。
能弁なひとなら、これで噺はおしまいかもしれないが、訥弁の噺家さんはこれくらいで崩れることはない。
次は順番どおり、クイツキの神田松鯉先生。クイツキだが同時にヒザ前でもある。
休憩後の客を引き付け、なおかつトリの師匠の邪魔にならない存在でなければならないが、こういうときに講談はぴったり。
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芸協の寄席に行く回数は、落語協会に比べてだいぶ少ない。今年は是正しようと思っているが。
芸協にもいいところはある。落語協会の席より「講談」が充実している点などは嬉しい。講談が入れば、それだけ寄席のバラエティ化に貢献する。
講談のみの席に行ったことは一度しかない。これはこれで大変楽しくはあった。
だが、落語に交じっての講談はさらに楽しい。講談師の先生に向かっては申しわけなくて言えないが、私にとって「講談」は、寄席で掛けられる落語の一種。
人情噺が理解できる人ならば、だいたい受け入れられるはずだ。
さて神田松鯉先生。
同じ月に初めて聴いたばかりの三遊亭竜楽師匠がきっかけなのであるが、「母性」を放つ噺家さんがいると思うのである。
客を包み込むオーラを出している噺家さんがいるのだ。
このオーラが出ていると、客はすべてを委ねる気になるのである。いったんすべてを委ねてしまうと、あとは噺家さんの芸に100%ついていくことができるのだ。細かいクスグリで笑うかどうかなど、どうでもよくなる。
その状態で荒々しい「父性」をぶつけられると、さらに大いなる安心のもと、世界観にひたれることができる。
落語も講談も変わらない。松鯉先生に、同じ「母性」を感じた。この先生には、すべてを委ねてしまっていいという。
出身地である上州には「芸人」「ヤクザ」「政治家」が多く出るという話、また「水戸黄門」に出ていた石坂浩二の話。
このあたりでもう、私はすべてを委ねてしまいました。
そこから「水戸黄門」ネタの「雁風呂の由来」を。
柳家小満ん師匠の「雁風呂」を聴いておいてよかった。釈ネタの落語が好きだと、講談には楽々ついていける。
淀屋の登場の仕方や、貸金回収の手段等、細かいところはもちろん違うけども。
講談というものが落語と違うのは、「ああいい話だった」という着地点を目指して、一直線に向かっていき、大きな起伏は求めないところか。それを避けるため、入れ事をする先生もいるが。
演者に魅力があるなら、話芸の特徴など欠点でもなんでもない。松鯉先生は余計な入れ事などせずに、客を「見てきたような嘘」に包んで一緒に着地点に連れていってくれる。
いいものを観せていただいた。雁が口に木片をくわえて津軽海峡を渡っていく場面など、情景が目に浮かびましたね。
ヒザ、バイオリン漫談のマグナム小林さんも久しぶりだった。タップダンスをしながらバイオリンを弾く見事な芸。
客が、演者がどのあたりで拍手を要求するかなど、よく知っているふうだったのでちょっと関心した。よく観てますね。
落語協会の席で「ジャグリング」をやるストレート松浦さんについて、タイミングを私がよく知っているのと同様なのだろう。
ちなみに、冒頭の挨拶で、私のうすうすの疑問を解消してくれた。
「しのばず寄席は、各団体が集まる寄席ですが、今日は芸協の人がほとんどです。31日で、仕事のない人が多いですから」。
「余一会」のある日は、芸協の芸人さんは仕事が少ないのだろうか。今度面白いから調べてみようかしら。
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芸協の寄席について、内容をこと細かに記しているのは初めてである。夏に息子を二度目の池袋に連れていった、瀧川鯉昇師の芝居のときも、本当に楽しかったが書くことは特になかった。
今回は、あらゆる角度から本当にいい芝居であった。まだまだ、落語でびっくりさせられることがあるものだ。
今年は、広小路亭も積極的に訪れたい。なによりも、これだけくつろげる場所だということを再発見したのは大きい。
さて、この日唯一の芸協所属芸人ではない、大正演歌の福岡詩二先生について。
バイオリンの芸が、マグナム小林と同じ日でふたりというのは番組構成上どうなんだろう。
この芸人さんにお会いすることは、今後そうそうあるまいが、寄席らしい芸で楽しませていただいた。
バイオリンに合わせて「宵待草」やら「籠の鳥」やら、大正演歌を歌いあげる芸。
私もこういうのを楽しく聴けるような年代になったのか。
年を重ねるに連れ、こういった枯れた芸を楽しむための素養が徐々に増えてきたのは嬉しいことである。てめえで言っとりますが。
あとの演者で光ったのは、前座の全太郎であった。昔昔亭桃太郎師匠の弟子。
「子ほめ」であったが、常にどこかで前座が掛けているのを聴く「子ほめ」の中ではいちばんいい出来だったと思う。
どこがどう、というのではないのだけど、聴いていて「『子ほめ』っていうのは、実によくできた楽しい噺だよなあ」と改めて感じさせてくれる噺だった。
彼も、二ツ目に昇進したら新作落語を掛けるのだろうか。
中途半端なところでネタが切れましたので、「お江戸上野広小路亭」ガイドでもしてみます。
場所は、春日通りと中央通りの交わる「上野広小路」交差点の南西角です。目立つ場所にあって、知らない人が鈴本演芸場と間違えたりします。
JRの「御徒町」駅からは、鈴本より若干近いです。
その歴史は浅く、悪い言葉ですが「端席(はせき)」であって、東京の四つの寄席にはカウントしてもらえません。
鈴本演芸場と喧嘩して出なくなった落語芸術協会の受け皿的なところがあり、そのためか、独演会等であっても落語協会の人が出ているのは見たことがありません。皆無、かどうかまでは知りませんけども。
ちなみに、広小路亭ができる前は、芸協は御徒町駅前の「吉池」で落語会を開いていたそうですね。
広小路亭、毎月15日までは芸協の定席(昼席)を開催しています。
11~15日の夜席、16・17日の昼席は立川流です。志の輔師、談春師などホール落語で売れている人は出ません。逆に、出してもらえない所属噺家もいます。
その他、講談の席や、私がこのたび観にいった「しのばす寄席」、それから独演会など開催しています。
定席はほぼ2,000円。シルバー1,500円。
1階入口で靴を脱いで上がります。靴は2階のロッカーにしまい、3階の席まで上がります。
狭い狭いといわれる池袋演芸場が巨大に思える狭い席です。