春風亭一之輔「新聞記事」

春風亭一之輔師の噺、当ブログでは具体的に取り上げたことがなかった。
この師匠の噺、たまらなく面白いが、面白さの分析がやたら難しいのである。
徐々にわかってきた気がするので、ひとつ取り上げてみます。

コレクションの中から、何度聴いても面白い、「新聞記事」を取り上げてみる。凡庸な作品のない師の噺の中でも出色のデキ。
もう3年前に「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」で流れたもの。
クロマキー合成の高座に、スタッフの笑い声だけがカブる、芸人殺し、地獄の舞台。
しかし、弘法筆を選ばず。肝の据わった人はこの環境にまったく動じず、立派な高座を務めあげるのだ。

一之輔師匠、圧倒的な面白さでもって、落語に限らず、「お笑い」の世界でも勝負になる得難い人だ。
ふた昔前の小朝師に、たぶんこういう輝きがあったと思う。だが、小朝師のウケ具合は、主として入れ事によるものだったように記憶する。
一之輔師も入れ事は多いが、しかしよく聴くと、「落語」そのものを掘り下げたがゆえの面白さが見えてくる。

新たなギャグをたっぷり入れても、噺を決して壊さない噺家さんがいる一方で、一之輔師は結構壊してしまう。
しかし、壊した噺を、自力で再構築する。再構築したものは、元の噺より相当に、噺の構成自体が面白く変貌を遂げている。
もともと「新聞記事」自体、大した噺ではないと思う。原型である上方落語の「阿弥陀池」と比べても、さらにたわいのない噺で、「つる」と同工異曲。
他の噺家さんが掛けても、正直そんなに面白い噺とは思えない。だが、一之輔師が再構築すると、同じ噺とは思えない面白さ。同じ噺ではないのだろう。
一之輔師の描く八っつぁんもまた、こんな素敵なキャラはなかなかいない。

噺の再構築とはどういうことか。
嘘ニュースを大喜びで友達に披露しにいくという、「新聞記事」の噺の肝自体、そもそもしょうもない内容だ。
何を目的にしている人なのか、よくわからない。ただ、そんなことを言っていたら「子ほめ」も「道灌」もみな聴けない。ほどのいいところで折り合いをつけ、落語とはこういうものだと捉えて楽しむことになる。
だが一之輔師は、その剛腕でもって、友達に話をしにいきたくて仕方のない、噺の中でリアルな人間を作り上げている。
そして、次から次に繰り出すクスグリは、このキャラクターと一体のものだ。ギャグによって、八五郎の人間性が膨らみ、行動原理が伝わってくるのである。
落語の主人公に、そもそも「行動原理」が必要なのかどうかもわからない。だが、ひとつ言えることは、一之輔師の噺を聴いていると、あらゆる意味での「違和感」を覚えないのである。
昔ながらの、皆が「落語ってこんなもんだよね」と思い込んでいる噺を、師は自然なストーリーに作り替えていくのである。
あくまでも落語の中での「自然」や「リアル」であるが。

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ラジオを聴いていても一之輔師は面白い。噺家さんの余技という感じではない。いずれ、ゴールデンタイムに進出するに違いない。
「節分」について「穀物を投げて鬼を追い出す儀式」だって。
いつも、世の中を裏側から見ようとしている人なのだ。

一之輔師の噺におけるクスグリは、噺を分解し、再構築するために欠かせないものだ。
ギャグのためのギャグではなく、すべては落語的世界に連れていってくれるための手段に思える。
だからか、意外と師はギャグに頓着していない。
磨き抜かれたギャグばかりだから、ウケないことはあまりないのだが、仮にウケなかったとしても、さらっと流す。
ギャグに渾身の力が掛かっていないので、そういう芸当が可能なのである。
上手くない噺家が、ここぞとばかりギャグに力を入れて蹴られたときのような、回復不能のダメージなどない。
また、力が入っていない分、楽しいのだけど案外疲れない。

大爆笑「新聞記事」を聴いていく。
一之輔師の開発した喋り方。口元を緩めてはきはき喋る。泥棒もそうだが、アホキャラにぴったり。
隠居さんを訪ねていきなり八っつぁん、フルスロットル。
「隠居さん、新聞っていうのは、読むの?」
「どうすんだよ」
「新聞てのは、丸めて、人の頭を叩いたり、そういう道具」

新聞に「何が書いてあるか」ではなくて「そもそもなんのためのものなのか」から迫る一之輔師の八っつぁん。
隠居さん、小生意気な八っつぁんをいっちょからかってやろうと、今朝の新聞に、八っつぁんの友達の竹さんの記事が載っていたと嘘を教える。
ところが八っつぁん、竹さんが強盗に殺されたと聞いて、慌てふためき、悲嘆にくれる。残された家族に思いを馳せ、葬儀と香典の心配をしだす。
当たり前である。友達が亡くなったと聞いたとき、これが一般的な人の反応のはず。香典の心配まではともかく。

隠居は、「泥棒はすぐアゲられた。入ったうちが天ぷら屋だから」という冗談のネタばらしをしようとするのだが、引き続き悲しみにくれる八っつぁん、隠居に悪態までついて話を聞かない。
「新聞記事」、もともとが冗談を披露するためにその背景を作っている無理な構図の噺なのである。だからどの噺家がやっても、この場面に無理があり、あまつさえ聴衆に不快感すら与える。
このご隠居、現実世界からみればいささか洒落がキツ過ぎるのである。「落語ってこういうもの」だと目をつぶってスルーしない一之輔師、さすがのセンス。
隠居にからかわれたと知って、帰りながら八っつぁん、「涙返して欲しい」。
帰る途中で、「あれ、落とし噺だ。おもしれえな。いっちょやってやろう」となる。これも大変自然な流れ。

かくのごとく、噺の中で八っつぁん、大変「自然」な反応を見せるのである。古典落語でおなじみの「オウム返し」を始めるにあたって、無理がない。
結果として、噺の全体的には楽しい雰囲気がかもし出されている。
とはいえ八っつぁん、常識にとらわれない躁病的人物であり、地に足がついていない。無理のない世界観を確立しておいたうえで、この世界の中で大暴走を始めるのである。

そして、この間にクスグリが盛りだくさん。クスッとするものから大爆笑のものまで。「クスグリを取ったら噺がなくなっちゃう」といわれる志ん生の「火焔太鼓」もびっくりだ。
「ようこそ芸賓館」の地獄の舞台だが、さして笑いがなくとも、強心臓の一之輔師は乗り切れてしまうのである。

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今日は、丁稚定吉オリジナル「落語のステージ」を紹介します。
これを使って、春風亭一之輔師の噺に迫る、という大変野暮なことにチャレンジいたします。

ステージ1: 等身大の演者の世界
ステージ2: おはなしの世界
ステージ3: 落語の世界
ステージ4: 狂気の世界

「ステージ」は、演者と客が乗っている巨大エレベーターだと思ってください。
普通の落語は、ステージ1からスタートして、徐々に移動していく。
ステージ1は、演者自身のマクラ。
ステージ2で、噺の付属品、古典的なマクラを振って、足慣らしをする。例えば、喋るたぬきや幽霊が出現してもいいように準備するのである。
それからステージを1段上がって、落語の世界に客を連れていく。客の反応がよければ、狂気の世界にステージを上げてもよい。

だが上手い噺家さんは、細かくこのステージを行き来してみせることがある。
地噺だと典型的にこれが現れるが、普通の噺でもそう。
立川談志というひとは、このステージ間のシームレスな移動に長けていたのだと思う。それを「イリュージョン」と言ったのでは。
現代では、柳家喬太郎師や三遊亭白鳥師が、このステージの行き来が上手い。噺がウケたりウケなかったりしているその最中に、ふっとステージを一段下がって演者の立場からコメントを発するという。それ自体がギャグになる。
下手な人が真似すると、演者だけが勝手にステージを離れるから、落語の世界に没入しようと努力している客への妨害行為になってしまう。

「つる」や「新聞記事」などの、「わりとしょうもない噺」においては、ステージ2「おはなしの世界」からステージ3「古典落語的世界」への移行がやや困難に思う。
「道灌」や「子ほめ」などと噺の構造が異なり、ステージ移行が拙速だ。「新聞記事」の隠居はいきなり嘘に入るので、客は今いるステージがどのレベルなのか認識できないうちに、落語的世界に無理やり連れていかれてしまうのである。
落語ファンは、古典落語を「こういうものだ」と思って聴くのに慣れている。
だが、拙速なステージ移行はあとに違和感を残す。ごく普通の噺家さんの「新聞記事」は、「人の生き死に」というデリケートなネタをギャグにできていない。

「つる」において、「ご隠居の噺を嘘だとわかった上で他人に話しに行く」というやり方は桂枝雀が始めたらしい。師匠の米朝はこれをよく思わなかったとのこと。
落語の登場人物の行動を説明するのは味気ないと思う。私は好きではない演出。だが、なぜそうしたか。ステージをスムーズに移動するための懸命の工夫だと思うのだ。

一之輔師の「新聞記事」においては、枝雀と違うやり方で、このステージ移動をシームレスに実行している。
八っつぁんがきちんと、人間本来の反応をしてみせることで、ステージ間移動の際に客を置いてきぼりにしないのである。
一之輔師の噺も、各ステージ間を細かく移動している。
ただ、爆笑マクラを終えてステージ2に入ると、二度とステージ1には戻らない。演者は姿を消す。
師の噺においては、エレベーターの操作係は登場人物だ。「新聞記事」ならば八五郎が、ステージ2~4を、客を載せて移動するのだ。

こんなことを考えていると実に楽しいです。

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一之輔師の落語を構造的に分析する、ということに取り組んでいる。
そちらのほうから始めてしまったが、この「新聞記事」が面白くて仕方ない理由は、まずは数々のギャグにある。
これでもか、というギャグフレーズを、力を入れずにさらっと繰り出すのがやたらおかしいのだ。
そしてこのギャグは、古典落語的世界のステージにはとどまらず、あらゆる階層から繰り出される。現実レベルや、狂気のレベルから。
演者でなく、八五郎自身が階層を上下しながらギャグを発するのだ。
しかし、噺の世界は壊さない。一之輔師自身が一度バラバラにして組み立て直した世界だから、もう壊れないのだ。

そして、この数々のクスグリのおかげで、八っつぁんの「友達に聴いた話を教えたくて仕方ない性格」が描かれて、ストーリーが自然な運びとなるのも見事。
たとえば先日亡くなった橘家圓蔵師匠など、ギャグフレーズはギャグのためだけに存在していた気がする。
圓蔵師を悪く言う気はない。一之輔師の天才振りが圧巻なのである。

このようについギャグの効能を考えてしまうのだが、効能はともかくひたすらギャグが楽しい。ちょっと取り上げてみる。

隠居の落とし噺を気に入って、友達に伝えようと企てる八っつぁん。
「ちょっと名人口調で言おうかな。『入ったうちが、天ぷら屋でゲスから』」
「勢いよくやろうか。『入ったうちが天ぷら屋! おあとおおぜい!』」

中でもいちばんのギャグは「六尺ゆたかさん」。
友達のところで、隠居の落とし噺をうろ覚えで披露する八っつぁん。
天ぷら屋の竹さんのところに「六尺豊かの大男」が押し入ったと説明したいのだが、うろ覚えなので「一尺八寸の大男」と言ってしまう。ここまでは普通の落語。
友達のほうから、「『六尺豊か』くらい言うんじゃねえの」と振ってもらって、ようやく先に進めるのだが、そのときの八っつぁんのセリフ。
「そう、六尺ゆたかさんがいたんだよ。『どうも、六尺ゆたかです』って」
ちなみに、うちの息子もここで毎回大笑いしている。

一之輔師は言語のセンスが圧倒的にすばらしい。「六尺ゆたかさん」には参った。
落語界に、これに匹敵する言語センスを持った人が他にいたかどうか? 他のジャンルだが、吉田戦車のマンガなど連想する。

そして、そのリズム感、グルーヴ感も圧倒的だ。
リズムのよい言葉を選びぬいて語っている。
リズムのいい人というと先人では志ん朝だろうが、志ん朝が語っていたのは純然たる古典落語の世界。
一之輔師は、「ビルマの竪琴」やら「びっくり人間」やら次から次に入れ事をしながら、なおリズムよく喋るのである。
リズムのセンスももちろんだが、ボキャブラリーも豊富なのだろう。

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演者から操作を委ねられた主人公八っつぁんが、エレベーターを上下に上げ下げして、客を揺すぶりまくる「新聞記事」。

八っつぁんが友達に、隠居から教わった話を披露しはじめてからは、この揺すぶりがすごい。一気に狂気の世界に客を連れていく。
次から次へギャグを放つが、力は入っていなくて、わりと聞き流せるものが多い。だから、客は「狂気性」だけを取り入れ、ギャグと正面からぶつかってぐったりすることはない。
非常にうまい落語のつくり。
ちゃんと聴いてみると、アンドレ・ザ・ジャイアントが入っていたり、池尻大橋が入っていたり、やりたい放題。
上方の「阿弥陀池」以来ずっと入っている、「体を交わす」「心臓を一突き」が思い出せなくて、からめ手から持っていくギャグであるが、かなり手がこんでいる。
先人たちと違うのは、一之輔師の八っつぁんが、一体なにを語ろうとしているのかまったくわからない点である。わからないのだが、狂気をはらんでいて目が離せない。最終的に、「たい」「ぞう」が言いたかったのだとわかると感動である。
お笑いや笑点から入ってきた初心者から、古典落語の世界を脳に焼き付けている客まで、すべてを満足させることができるのである。

やりたい放題の世界の中で、「六尺ゆたかさん」と並んでもうひとつ素晴らしいギャグがある。「そのもとはる」。
「生兵法は大怪我の元」と言いたい八っつぁん。「なまぐみなまもめなまたみゃぎょ、言えた」「言えてねえよ」。
ここも、正しいことわざを友達に教えてもらって「そう、その元、そのもとはるなんだよ。サムデイなんだよ。歌わない、歌わないよ、JASRACが関係してくるから、BSイレブンのこと考えてるから、金掛かるから」。
うっかりしていると、いったいどこから佐野元春が出てきたのかわからないのだが、突然すぎてやたら面白い。
そして、こんなギャグを喋るリズムが最高。結構口慣らししていそうな口調なのだけど、内容的にはアドリブだろうなあ。
これだけギャグを繰り込んでも、分解再構築された一之輔ワールドの中では不自然さが皆無。八っつぁん自体がイリュージョンのかたまりだから。

発声とリズムの心地いい一之輔師。必要があれば、八っつぁんに「ヤダア」と女声まで使わせる。
さらに、これに加えて所作もまたリズミカルで面白い。
「泥棒はすぐアゲられた。入ったうちが天ぷら屋だから」と言っても、哀しみにくれてしまいひとの噺を聞いていない八っつぁんに、一所懸命眉毛で「笑え」とアピールする隠居。
オウム返しをする八五郎のほうは、「逮捕されたんだよ、入ったうちが天ぷら屋だから」と間違えて言い、決めポーズをしてみるが、話がオチなくてくじけ気味である。

分析してみると、一之輔師の落語、ある程度その面白さがわかってくる。
だがこの落語、下手に真似をすると、客に蹴られ大ケガするに違いない。まずは、テクニックを駆使し、客に狂気の世界に馴染んでもらわないとなにもはじまらない。
では、なぜ一之輔師は、客に狂気の世界を馴染ませることができるのか。
ある程度、わかってきたつもりだが、ここでまた振り出しに戻りかねない。実に噛み応えがあって味わい深いものだ。

サゲは師匠、結構工夫している。
完全オリジナルではなくて、先達のギャグの中から拾ってきたのだと思うのだが、サゲに持ってきたその使い方は見事。
ネタばらしして噺の価値が落ちることはないと思うのだが、気分的に遠慮しておきます。サゲがすべて、という噺でもないけれど。

膨大なレパートリーを持つ一之輔師、そんなに魅力のあるわけではない古典落語でも、見事に作り替えてしまう。
新作落語を作ったら、と思うのは私だけではないと思うのだが、本人からすると違うみたいだ。
古典のパロディ路線から始めると合いそうなのだけど、パロディでなく、古典を面白く聴かせるというタテマエが必要なんだろうか。やってることは、古典落語を知るファンに、改変した落語を二重映しで見せて笑わせるということであり、パロディに大変近いのだけど。
でも、古典落語を今後も面白く聴かせていただけると大変嬉しい。

お見立て/短命/新聞記事/富久

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。