ブログのネタに困ったら、基本に帰る。
こんなときはやはり柳家喬太郎師匠である。
極めてユニークな喬太郎師だが、古典落語には基本が詰まっている。
昨日取り上げた「茶代」を収録しているディスクよりさらに古いもの、もっぱら2013年にオンエアされたVTRを繰り返し聴いている。
「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」や「落語研究会」で流れたものが多いが、いずれもすばらしい。
どんなラインナップかというと。
- 幇間腹
- 仏馬
- 転失気
- 初天神
- 提灯屋
- 竹の水仙
- いし
- 初音の鼓
- 花筏
- 井戸の茶碗
- 粗忽の使者
- 錦の舞衣(上)(下)
- 粗忽長屋
- 綿医者
いずれも、繰り返しの視聴に耐えるものばかり。
古典多めだが、新作がこの時期少なかったわけではなく、私が別のディスクにまとめたのだと思う。
トリネタもあるが、軽い噺が多い。
この軽い古典落語にこそ、喬太郎師の本質が隠れているかもしれないと一瞬思ったぐらいだ。
喬太郎師、新作のぶっ飛んだイメージからすると意外なぐらい、古典落語をいじらない。
古典落語については、常に先人の功績が頭にあるようだ。新作では遊ぶのだから、古典については遊びすぎなくてもいいらしい。
だが、先人の創意工夫に準じた噺の中に、キラッとこの師匠ならではのものがある。
師の新作落語で笑いっぱなしももちろんいいのだが、スタンダード古典の中の見事なアレンジを見つけるのも、同じぐらい楽しいもの。
スタンダード中のスタンダードである前座噺、「初天神」を改めてじっくり聴いてみる。ようこそ芸賓館の一席。
とりあげるのを、転失気とどちらにしようかと迷った。演芸図鑑で出した11分の粗忽長屋もいい。
初天神は、前座から真打まで非常によく掛ける噺。さん喬門下の人は特によくやる印象がある。
そして、喬太郎師のスタンダードナンバーはこんな出来栄え。
- 懲役ごっこのスタンダードマクラが入る
- 金坊がとても可愛い
- 親父を舐めている金坊にまったく嫌らしさがない
- 親子の描き分けにおいて、かなり声は使い分ける。
- 親子は仲良し
- ストーリーは完全にスタンダード。「おとっつぁん無邪気だね」など定番のクスグリはしっかりと使う。
- 喬太郎師ならではの部分は、所作やちょっとしたクスグリにある
師匠であるさん喬師の初天神に、非常によく似ている。そちらから来ているのだろう。
声をかなり使い分けるのは、この師匠ならでは。
一般的には声を使い分けないで人物を描けということになるのだが、この師匠がやると実に自然なのだ。
それは、「声を分ける」こと自体に目的がないからだろう。
どちらが喋っているのかをはっきりさせるための声の使い分けではないのである。
あくまでも、金坊はかわいらしく描く必要がある。あくまでも、その手段としての声なのだ。だから既存の古典落語の世界と断絶はなく、違和感もない。
親子の情愛がしっかり描かれているのはさすがである。ここが描かれていないと、恐らく古典落語としては価値がなくなるだろう。
そして喬太郎師、子供の感性を内面に抱えたまま大きくなった人である。それが高座に現れることで、聴き手も新鮮な感動を得ることができる。
既定の演技に求められる要素は、極めて高いレベルですべてこなしておき、そこにさりげなく、考え抜いたオリジナルギャグを入れていく。
- 「このやろ」と人差し指を金坊のおでこに当てる親父。カミシモが変わって、金坊が親父の指に額を押されている。
- 飴を買ってもらえない哀しさのあまり、声にならないうなり声を計3回上げる金坊
- 団子を買ってくれない親父に「パパ」と懇願する金坊
- 子供を従わせる際に、野太い声を出して金坊をビビらせる親父
超音波を発する金坊は、春風亭昇々さんで見たことがある。協会も違うが、伝わったのだろうか。
野太い声は、ギャグとして結構この師匠は使う。
ちゃんとギャグとして描かれているのは非常に大事なことだ。もしそうでないと、親父の叱り方がひどいと客が引いてしまう。
「パパ」はともかく、かなり自由に遊んでいる喬太郎師のそのギャグ、やはり古典落語の世界とブレていない。
人差し指のギャグだって、「よーいよーい」のカミシモが、形を変えてここに現れたものなのだ。
繰り返して視るたびに楽しくなるにもかかわらず、この噺のすばらしさが完全につかめそうで、スルっと逃げられていくようにも思う。
まあ、それでいい。完全に理屈で解析できてしまったらつまらないではないか。
クスグリではないのだが一か所、別の人からは聴いたことのないシーンがあった。
金坊が祭りの様子を、目を輝かせて眺めながら、あんず飴を買った子が一本当てているのを実況している。
このシーン、たまらなく好きだなあ。