落語と「表現の弾圧」(上)

立川志らくという人に、落語界を代表して欲しくはないといつも思っている。
いいほうで代表として持ちあげる人はいない。悪いほうの例に取り上げて「最近の落語家は・・・」という人ならたくさんいる。
この人がTVタレントとしてやっていこうとすることについて、とやかく言うつもりは全然ない。
でも、ワイドショーを噺家の代表としてやっているようなフィクションをでっち上げるのはご免こうむりたい。

視聴率がダダ下がりだそうだが、それでもって面白がってチャンネル合わせる人もいないらしい。
でも、誰も視てない番組での発言がネットニュースにはなる。変な仕組み。
私も番組を視る気は一切ないのだが、語ったことだけが報道される。
それにしても。世間に向けて自分の頭の悪さを一生懸命アピールしてもな。
「表現の自由」という高度な概念について、無知な自分の感性だけでもって語り切れると思っているところがある種すごい。そして、語ることが正義だと思っている。
そりゃ、松之丞にもdisられるわ。

論理性のかけらすらないのに、頭がいいフリをして自爆する志らく。
談志に「バカと付き合うな」と言われて、他の噺家と付き合わなかったという、極めてバカな人らしい帰結ではある。
頭の悪い噺家がなにを言うのか、気になって番組を視る人はやはりいない。

まあ、弟子へのパワハラとまったく矛盾していない言動だ。自分がいちばん偉くて、周りは全部馬鹿だと思っている構図の中では。
自分が偉いと思うのは自由だが、その根拠ぐらい欲しいところだ。
噺家だから学歴はなくたっていいが、驚くぐらい、偉ぶる根拠を持ち合わせていない男。
「最近急に売れた」という事実を持って、昔からメディアの世界で売れていると錯覚を起こしているのだろうな。
かつては、落語界における一部の評価により。
それから最近のメディアでの一部の評価。それがずっと根拠なくつながっていて、ずっと売れっ子だったという脳内変換を起こしている。
視聴率が悪くてもへこたれまい。多少はへこたれて欲しいが。

もっとも、世間の態度のほうも私は気に入らない。
右の人間なら、あいちトリエンナーレに関する志らくのコメントに賛同する。左なら、逆の立場から非難する。
ただそれだけだ。実になんともくだらない。賞賛にも非難にも、論理性はない。
志らくは思想なんて持っていない。その場限りであっちフラフラしてるだけ。
空っぽのくせに思想体系があるかのように見せつける程度の人間を、バランスの取れない自分の思想でもって叩いちゃいけない。
叩くなら論理で叩いて欲しいものだ。
ラサール石井について、志らくを追い詰め、自爆させるその論理性は非常に立派だと思う。思想の好き嫌いとは別の話。
ちなみにあいちトリエンナーレの件に関していうなら、左翼嫌いの私もラサール石井氏に全面的に賛同するものです。
いつの頃から、表現の自由を価値感で論じるようになってしまったのか。

さてここまで随分と引っ張ったのだが、本題は志らくの悪口ではない。
ラサール石井が志らくに対し、「権力側に、弾圧される可能性のある表現者の志らくさんが加担しているのが残念」とコメントしている。
非常にもっともなコメントと思う一方、オヤと思ったのである。
落語って弾圧されるものか?
「はなし塚」のことなら、すぐに私だって思い出す。
不謹慎な噺が戦中にできなくなってしまった歴史。
その事実は十分知っているが、にも関わらず違和感を覚えたのである。

落語は権威に逆らう反骨精神から生まれたものだと思っている人も多いだろう。だから左翼にも落語好きがいる。
可能性としては、落語などの芸能が権力の弾圧を受けることはいかにもありそうだ。
私も、反骨精神というものを嫌ったりはしない。
歌川国芳が、役者絵を禁じられ、亀の甲羅や壁の落書きとして役者を描いたエピソードなど、私の愛してやまないもの。これは落語に通じる。
だが、落語はそもそも、権力者に弾圧されるものなのか?
そう思い込んでいるなら、大きな勘違いだと思っている。ちょっと思うところを書いてみる。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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