柳家喬太郎「井戸の茶碗」

鈴本上席(昼席)主任の喬太郎師の掛けた「井戸の茶碗」について。
喬太郎師の噺、当ブログでは、復刻落語の「擬宝珠」と、新作落語「ハンバーグができるまで」を取り上げた。
次に師の古典落語を、と思っていたのだが、これが意外と難しい。
迫真の怖さに満ちた「宮戸川(通し)」、バカバカしさに満ちた「粗忽の使者」、小坊主のかわいらしい「転失気」などバラエティに富んでいる師の古典落語であるが、真剣に聴こうとすると意外とアプローチが難しい。真剣に聴こうと思うのがすでに野暮だけど、落語を真剣に考えると楽しい。
喬太郎師、落語が好きすぎる人のようである。新作では弾ける師であるが、尊敬して止まない先人たちの偉大な業績に溢れている古典落語に対しては、遠慮もあるのではないかという気がしてならない。

と思っていたところに、寄席で喬太郎十八番「井戸の茶碗」が出た。
かなりお好きな噺のようだ。「歌う井戸の茶碗」というオプションまである。
落語の大好きな喬太郎師が、先人たちに遠慮を見せずに掛けている古典落語ではなかろうか。

いつも落語について悩み抜いているらしい喬太郎師、この日、珍しく女性の「待ってました」の声にも応えず、「いろいろなご職業がありまして」のあっさりしたマクラから早々と本編に。
TVでもしばしば流れる師の「井戸の茶碗」。その中身はよく知っている、つもり。
この日のバランス的にはトリが古典で全然いいのだけど、正直もっととんがった噺が聴きたかったなと思ったのも確か。この日の鈴本を大変楽しんだうちの息子も、トリの喬太郎師だけはピンと来なかったらしい。
「喬太郎さんは、師匠のさん喬さんより老けて見えるよね」などとコメントする息子、決して無知ではない。

助走をつけずゆったり始まった「井戸の茶碗」。「正直清兵衛」といいつつ実は、「自分の欲望に正直な清兵衛さん」というあたりから、がぜん面白くなってくる。
仏像から出てきた五十両、高木様に向かって「返さなくてもいい、しまっておきなさい」とそそのかす悪い清兵衛さんである。
ただ、演者によっては噺の中心に据えられるこの清兵衛さんを、変なキャラクター造型にしてしまってどうするのか? 即物的に得られた笑いの先にあるものはなにか? など、感性で楽しんでいる頭の片隅で、理屈の脳が働き出し、ちょっと考えさせられてしまう。
ギャグによって間違いなくウケは取れるが、噺が壊れてしまったらどう収拾を付けるのだろう。

今売れている春風亭一之輔師は、「どんなに暴れても壊れない」噺の容れ物をまず自力で構築してから、暴れまくる。どれだけ強く暴れても、容れ物を頑丈にこしらえているので、噺は壊れない。
そういう人を念頭に置いて、先輩の喬太郎師の噺、「ムダなギャグで噺を損なっている」という評価だってできなくはない。「古典落語を壊す噺家喬太郎は新作をやってろ。落語なめんな」という中傷だって、あるかもしれないではないか。
なにも私がそう思ったわけではない。そういう見解だってわからないではないと一瞬思ったのだ。

話は飛ぶが、「押尾コータロー」というギタリストがいる。「学」じゃないですよ。
ギターの奏法についてはまったく無知で申しわけない。コータローさんがどれだけ人間離れしたすごい演奏をしているか、そのテクに憧れるギタリストのように理解ができるわけではない。
だが、コータローさんの超絶技巧の成果として流れてくる、美しい音楽のことは知っている。
一本のギターから、主旋律と伴奏が同時に聴こえてくるのである。CDだけ聴いていると、二本のギターをオーバーダビングしたのかと思ってしまうのだが、実はひとりで軽々とハーモニーを奏でている。
喬太郎師の「井戸の茶碗」を聴きながら、このミュージシャンのことを思い出した。
すなわち押尾キョータロー。これが言いたかった、のではないです。

どういうことか。
喬太郎師、決してギャグで壊した、おもしろ「井戸の茶碗」だけを語っているわけではないのだ。
テクニックに長けたキョータロー師、実は主旋律と伴奏とを同時にかき鳴らしている。
楽しいギャグ装飾溢れる主旋律だけに耳を澄ませてはいると正体がわからない。実は伴奏でもって、思わず照れてしまうほど人間の美しさを描いた古典落語「井戸の茶碗」を、師はしっかり語っている。
実はよく聴くと、主旋律の弾み具合に伴って、伴奏の美しいテーマもちゃんと浮かび上がってくるのだ。
狂言回しのキャラ清兵衛さんは、主旋律においてちょっと弾んでみせただけなのである。

これに気がつくと、もう、たまらなく楽しい高座である。
喬太郎師が語っているのは「新・井戸の茶碗」でも、「井戸の茶碗のようなもの」でもない。
師は、しっとりと「井戸の茶碗」を語ってみたくもあるのではないか。ただ、それだとファンが満足しない。だから、二重に噺を語っている。
といって、装飾溢れる主旋律だけに注目していていけないのか、というとそんなことは全然ない。ギャグに大笑いして楽しく帰って、それで構わないのです。
「ギャグ溢れる古典落語」として聴いて、「喬太郎さんは面白いわね」で、なにも問題などありはしない。
ただその部分だけを見て、「こんなの古典落語じゃない!」ともし言うのなら、それはさすがに違うのではないか。

私はたびたび当ブログで述べているのだが、TVで流れる落語はとてもいいものだと思っている。だが、ライブの落語が大変すばらしいこともまた知っている。
ライブで、演者の語りに真剣に立ち向かうのは大事なことである。TVでは気づかないものが生の語りで見えてくることがある。今日がまさにその日であった。
ただ、「ぼおーと聴いておく」というスキルあっての話ではある。落語はまずぼおーと聴くスキルがないと、真剣にも聴けないと思います。

作成者: でっち定吉

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