この日池袋にやってきた主目的である昼席主任、柳家蝠丸師の高座から先に。
客は7割方埋まっていたか。平日としては盛況な部類だろう。
弟子のふくびきさんがあいびき(正座椅子)を持ってきて高座の横に置く。
なるほど、足を骨折したので蝠丸師、普通には座れないらしい。
自分であいびきを尻の下にあてがい、頭を下げる蝠丸師。
「骨折してしまいましてね、お見苦しいところをお見せします」
ずっと入院していて、おとといから復帰しましたと。一昨日とは、この芝居の初日。
大変だったろうに、まるで悲壮感なく語る蝠丸師。
この師匠は、むき出しの現実を語ることは決してない。
リハビリしながら医者に相談したら、ワリの高い席だけ出なさいと言われたとか。
もっとも、初席には蝠丸師の名前がちゃんとある。顔見世興行は出なきゃならない。
「情けは人のためならず」の本来の意味を解説。
情けは、本人が覚えてないぐらいがいいそうです。だけど、「私があなたに、昨日百万円貸した? そうでしたっけ?」これは情けではなくアルツハイマーなので医者に診てもらってくださいだって。
本編は「徂徠豆腐」。寒い日だったためか。
私は昨冬たまたま、三遊亭竜楽師と入船亭扇辰師でいいものを聴いた。でも、珍しめの噺には違いない。さすが珍品噺の宝物殿みたいな師匠。
なんと「荻生徂徠」「徂徠豆腐」というキーワードがしまいまで一回も出なかった。つまり「実在の偉人伝」というくくりを取っ払ってしまっている。
釈ネタが最低限成り立つための、現実との接点を最初から求めないのだ。
よく考えたら、それで誰も困らない。
蝠丸師の人情噺を初めて聴いたが、実に不思議な触感。
この師匠は、人情噺に、直接的な人情を一切挟み込まない。
滑稽噺と方法論がまったく変わらない。高座にユーモアが漂い続ける。
最近落語を聴きながらよく考えている概念がある。「純化された人間の感情」というものである。
人間の感情、喜怒哀楽は一筋縄ではいかない、複雑なもの。
噺家も、「笑い」「泣き」を客に直接訴えかけているようでは二流。
そして、感情について説明を入れるようでは、やはり二流。
一流の人は、人間の感情の動きを、説明を入れず、純化して、記号化して提示する。
客は自分の脳内で、シンプルな感情を複雑化してから咀嚼する。
まるで最初から、演者が複雑極まりない人間の感情を表し切ったかのように錯覚する。だが本当は、非常に受け取りやすい、解釈しやすい感情をもらっているのだ。
蝠丸師はそういう芸。
だから実は金を持っていない先生に、豆腐屋はほんの一瞬も怒ったりはしない。
困窮極まる学者の先生に、毎日おからを届けた豆腐屋・上総屋。
あるとき風邪で寝込んでしまう。自分が行かなきゃ先生は飢え死にしてしまう。
床上げして慌てて様子を見に行くが、すでに先生は長屋を後にしていた。ああ、死なせてしまったと嘆く上総屋。
その後すぐ、もらい火で豆腐屋が全焼してしまう。
しかし友達の家に居候する上総屋に、「さる御方」から十両の大金が届く。
十両はいったい誰が送ってきたものか、まったく見当のつかず夫婦が悩んでいるところから、蝠丸ワールドに突入。
詐欺じゃないのか、使い切ってから後で返せと言ってくるんじゃないのかと語る夫婦。
おかみさんが妄想を始める。
このうちに、唯一価値があるものがある。あたしだよ。
いずれ身なりの立派なさむらいがやってくるのだと。私は借金のカタとして嫁にもらわれていくのだ。
あんたも安心しなさい。下男に使ってやる。
こんな入れ事をしたら、噺が壊れそうだ。だが、もともと緩い蝠丸師の落語はよく伸び縮みするので、少しも傷つかない。
それどころか、いい話の中での、とっておきのスパイスになる。
そもそも決して、強烈なギャグではないのだ。「愉快」といえばいいか。
そうだ、蝠丸師匠「愉快な噺家」だと思う。このキーワードが、自分で気に入った。
爆笑派でなくて、愉快派。
蝠丸師の楽しい高座、私はこの日でわずか3席目に過ぎない。
来年はもっともっと聴いていきたい。落語協会にはない芸。
上野広小路亭の、各派混合のしのばず寄席を狙おうと思う。