ぜんざい公社とみどりの窓口(下)

みどりの窓口、つまり旧国鉄と専売公社、期せずしてシンクロしていることに気づく(それがどうした)。

かつての落語芸術協会は、新作落語中心の団体だった。
なにしろ、先代古今亭今輔が会長を務めていたぐらいだから。その弟子の桂米丸師も、長らく会長の座にあって新作を手掛けていた。
圓朝ものに功績のある桂歌丸師ですら、新作からスタートしていたのだ。
そんな芸術協会で改良を加えられ、完成した新作落語のひとつが、ぜんざい公社。
今でも、昔昔亭桃太郎師や、笑福亭鶴光師が掛けている。
この古い新作落語が、なぜ滅びないかというのが今日のテーマである。
公社自体、すでになくなっている世の中で。

先に出した「試し酒」以外にも元新作、現在では古典落語として扱われている噺はある。
思いつくままにいうと、「宗論」「堪忍袋」「かんしゃく」。
いずれもややマイナーだが、「藪入り」ならいい例になるか。もっともこれは改作。
それらと比べて、設定が昭和らしいぜんざい公社、古典落語にはなれない。

桃太郎師のぜんざい公社、実に面白いのだが、師独自の世界になっているので、取り上げるサンプルとしてはどうかとも思う。
だがいっぽう、この師匠ならではの味あって、かろうじて命脈を保っているような気もする。
マジになるシーンが一切ない、独自のナンセンス落語。
桃ちゃんがいなければ、実は滅びているのかもしれない。滅びはしなくても、珍品の類に落ちているかも。

私のコレクションから桃太郎師のぜんざい公社を聴いてみる。3件ある。
NHK日本の話芸が2種類。2009年のものと2018年のもの。
それと2019年の浅草お茶の間寄席。これは桃ちゃんには珍しく、マクラなし。
2009年の日本の話芸では、本編が短いのでと断って、いつものマクラ付き。
2018年の日本の話芸ではマクラで、師匠・柳昇に勧められて、桂小南(先代)に教わったと手短に説明している。
小南がもともと上方から持ってきたようなので、オリジナルを教わったと言っていいのでは。
10年掛けて、本編を長くしている。珍しい工夫。
桃ちゃんの落語には、なんでも唄を入れられるが、「キュッキュキュー」と「嵐を呼ぶ男」。やりたい放題。

スタンダードとはいえないにせよ、桃ちゃんにとっていじりやすい落語。
ぜんざいを求めてぜんざい公社のビルの中を、階段を使って上下し、複雑な手続きを繰り返す悪夢のような噺。
だが、桃太郎師がいじると、噺の悪夢感は薄れ、とぼけた雰囲気だけが伝わってくる。
ようやくぜんざいにありつけた主人公、「長いシルコロードの旅だった」。これは桃ちゃんのギャグ。

桃太郎師、古典落語のクスグリ由来のギャグも入れていて面白い。

  • やあ患者くんか、こちらに来たまえ(犬の目)
  • 裏表のはっきりしない顔だね(井戸の茶碗)

さてこの噺、役所に対する国民の不満を代弁していると説明されがちである。
それは確かにそうだ。だが、その要素だけでは、いずれ消えていたかもしれない。
この噺が残っている理由は別にあると思う。この噺は不条理な世界の面白さを描いた落語なのだ。
日常のちょっとしたきっかけから、不条理に迷い込む設定に、大きな価値がある。
東海道線に乗って、さらにバスを乗り継ぎ、山を一つ越えないと、別館の食堂に行けないという楽しい不条理。

私も東京都に助成金を申請する仕事のときに、ぜんざい公社みたいな対応をされたことがあり、役所の不条理は身に沁みる。
若い女性だが無表情でツンツンしていて、まさにぜんざい事務官みたいだった。
この姉ちゃん、顔はわりとかわいいのに、ババアみたいに指に唾を付けてページをめくるので嫌だった。
だが、そんな経験なくたって、この噺は楽しいだろう。
つまり、日常のあるあるから、もう一段階突き抜けている。
役所批判で誕生した噺がこなれ、もっと芯の本質的な部分が表に飛び出し、普遍性を獲得したのだ。
普遍性の獲得とは、客が噺をダイレクトに理解できるということである。
普遍性がある以上は、ぜんざい公社はまだ滅びないだろう。

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作成者: でっち定吉

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