楽しい亀戸梅屋敷寄席、ついに主任の好楽師。口上のときと同じく、深々とお辞儀をして登場。
笑点と同じまっピンクの着物に着替えている。せっかく黒紋付を着てたんだから、普通はそのままだと思うけど。
以前はこのピンクの着物のいわれを、震災絡みでいろいろ語っていた師匠だが、ご本人にも着ている照れがなくなったものなのか、もう語らない。
この日は冒頭の口上で登場して、その後トリの出番まで暇だったって。だからずっと楽屋でいろいろ話をしていたそうである。
「酒飲みはやっこ豆腐にさも似たりはじめ四角であとはぐずぐず」と振って、親子酒。
噺の背景が語られないうちに、大旦那がおかみさんに、寒いからあったまりたいと謎を掛けている。
背景が、回想シーンを含んで徐々に解き明かされていくのだが、若旦那が酒でしくじり、自分のほうから禁酒を約束したのだそうだ。
客と喧嘩をしたというのがしくじりの内容。
店ののれんに傷が付きかねないので、大旦那は心底心配しているのだ。
そして、親子の禁酒は3日ばかりなんてことはない。夏にやめて、冬になるまで半年近く本当に我慢している。
若旦那は、大旦那の子供の頃からの親友の店に掛けを取りに行っている。
あいつにつかまったら、俺の子供の頃の話をされるはずだ、当分帰ってこないさと大旦那。
こんなスタイルの親子酒、初めて聴いた。
さすが引出しの多い師匠。だが、先代正蔵やら先代圓楽からではなさそうで、一体どこから来ているのだろうか。
親子酒プロトタイプにすら思える。噺が擦り切れて短くなる前の原型がこうだったのでは。
だが親子酒、もともと小噺から来ているらしいので、そんなはずはない。小噺から、架空のプロトタイプを逆に作り込んだような見事な構成。
そのような、後から細部をこしらえたであろう噺にしては、隅々までスキがない。
この親子酒がどこから来たものか調べてみたのだが、まったくわからない。
とにかく、既存の親子酒を解体して、人情噺の風味を加えて組み立て直した人がいる。好楽師の仕事なのだろうか。
酒の噺は実のところ、決して多くはない。猫の災難やひとり酒盛りなどというのは珍しい。
寄席では多くの噺家が、競うように親子酒を掛けている。試し酒、替り目などと交互に。あとは、禁酒番屋ぐらい。
現在掛かる親子酒は、だいたいがコント。
コントが悪いというのではない。コントとして上質ならばそれでいい。
でも、酒の噺が大好きで、酒も好きな私なのに、ちょっとコントっぽい親子酒に飽き気味でもあるのだ。
結局、サゲに持っていくためだけに構成された噺になってしまっている。元がそういう小噺なので、仕方ないけど。
だが、そんな昨今の親子酒とまったく違う好楽師のスタイル。
弟子の好太郎師や兼好師からも親子酒は聴いたが、このスタイルではない。継承されてはいないのだ。
解体して作り直したんじゃないかと思うのは、それが理由でもある。
これは多くの、落語が通ってきた道でもある。
例を挙げるなら、「夢の酒」なんていう噺がある。酒の噺というより夢の噺としてカテゴライズされているように思うが、小噺から逆に肉付けしていって一席の落語に仕立てた例である。
「ヒヤでもよかった」という元の小噺も、だから現に残っている。
好楽師の親子酒、好きな酒をやめるまでにはきちんとした深い背景があり、人間ドラマもある。
そして、親子の約束を破るにあたっても、そこに切実な事情がある。
なにもシリアスに語る人情噺というわけではない。だが、ただのコントにはない人情が全編に漂っている。
大旦那が酒を飲み始めて機嫌悪いはずのおかみさんも、大旦那が都々逸をうなり出して結構楽しそう。
最初は旦那に手を焼いて合わせているのだが、旦那が色っぽい都々逸をうなるので、合いの手を入れたりして。
好楽師が都々逸を謡うのを初めて聴いた。実にいい声だ。
中手が来ておかしくないいい声だが、中手をもらいたくなかったようで、実にスムーズに地の語りに続け、フェイドアウト。
拍手のスキを与えない。
中手をもらいたくない噺家も結構いるのだが、ここまで見事に回避したのを観たのは初めて。照れというより、もっと深い理由がきっとある。
いい感じの噺運びを拍手で邪魔されたくないのだ。
期待を大幅に上回る、感激の一席であります。
盛りだくさんの亀戸でありました。恐ろしく密度の濃い2時間。
先月に続けて、新真打になる楽大さんを見かけた。
帰りは天神さまに寄ってみる。梅まつりの最中。
まだ早いが、梅はぼつぼつ咲いてました。