前座、西村さんの後、三遊亭とむさんは、朝まで飲んでたそうで、二日酔いですみませんだって。
朝に飲み屋で目が覚めて、妻子のいる自宅にそーっと帰って着替えたそうな。
この人のマクラはいつも面白い。
大阪・毎日放送に仕事があって新幹線で行くが、一日2回も便所で用を足しているところを見られたという情けない話。
カギの掛け忘れかと思ったら、やむにやまれぬ必要性によるものであった。
そして、独身時代はだらしなくて、朝9時から老人会の仕事があるのに、起きたら9時半だったという話。
朝起きたら、充電の切れた携帯に、主催者からガンガン留守電が入っていた。
板橋から越谷に行かなくてはならない。通常の手段では無理なのだが、タクシーを拾って奇跡的に間に合わせた話。
非常によくできたマクラ、ネタバレは悪いので自粛する。
先の展開が読めなくて非常にスリリングである。
マクラで十分あっためてから新作落語へ。「祝ハンカチ」というのだそうだ。
一か所、立川志らく師をdisっているような部分があった。逃げは打ってあるが。
そもそも「志らく」というワード自体、高座でまず聴くことがなくて驚いた。
面白いのだけど、とむさんの新作、ちょっと私の肌に合わないところがある。
日常生活からはみ出ない世界を描いた新作落語である。この人は、他の新作もそういうのが多いはず。
日常的な設定の新作落語は、上方では普通である。
いっぽうで東京の新作はほぼ例外なく、日常からの飛躍がある。いにしえの芸協で作っていた落語が滅びたのも、円丈師から始まる飛躍の大きい、新しい落語に取って代わられたからだ。
古典落語と同様に飛躍していると思えばいい。
今の東京の新作は、世界の飛躍がいささか大きいので、登場人物がそのまま世界にスムーズに乗っかれないことすらある。
そんなときは、登場人物に世界に対する疑問を一言喋らせる。そうするとたちまち客と、登場人物とがシンクロする。
そういう落語は嫌いなのだろうか?
東京の新作派は、「そんな馬鹿な」という状況を、ストーリー的には必然でないのに、しばしばあえて入れてくる気がしている。
上方の、日常世界から離れない新作自体にはすっかり慣れた。上方落語協会会長の、笑福亭仁智師の作品など実に楽しい。
昨年のNHK新人大賞でも、そんな落語を掛けた露の紫さんを個人的に推した。
文枝新作を東京で手掛けている、柳家はん治師にもまるで違和感はない。
でも東京で、上方の手法で作られた新作落語を聴くと、やはりまだ違和感を禁じ得ない。世界と聴き手の、距離感の問題に過ぎないのかもしれないが。
とにかく、飛躍のなにがいいか。
いろいろ利点はあるのだが、ひとつは世界の矛盾が気にならなくなること。
このとむさんの落語では、上司の娘が結婚すると聞いた部下が、日曜日なのにスーツを着て百貨店に出向き、お祝いの品を探すという設定。
日常の世界を描いているがゆえに、「今どきそんな奴いねえよ」と思ってしまうのだ。
もちろん、そうする理由は噺の中で詳しく説明してある。普段仕事ができないからご機嫌取らなくちゃとか。
でも、整合性の取れるはずの世界にいるからこそ、ちょっとの非整合が著しく大きく感じられてしまう。
たとえば三遊亭白鳥師の「座席なき戦い」は、厚かましいおばちゃんと電車の座席の取り合いをするという噺。
一見日常の山手線の中っぽい世界なのだが、この世界がどんどん変容していく。
御徒町で、安かったという理由だけで5番アイアンを大量に購入したり、電車の中でマグロの頭を裂いたりするおばちゃんは実際にはいないからである。
でもだからこそ、聴き手が世界に矛盾を感じ、躓いたりしなくなるのだ。
とむさんの落語も、もっとブラッシュアップはできると思う。平凡な世界でキャラクターを動かすのであれば、登場人物をもっと強烈にしたらいい。
とむさん、なまじ常識人なので、登場人物に勝手に日常感が生まれてしまうのだろう。
噺家に対して上目線で語るな? 文句があるなら自分で面白い落語書いてみろ?
すみません、自分でもそれはそう思う。
決してとむさんをけなしているわけじゃないです。
でも、私は理屈から入る人間なのであり、理屈に合わないものがあると、掘り下げて疑問を解消せずにはおれないのであった。
とむさん自体は、軽い古典落語も面白い才人である。
新作になると、軽さが仇になっていないかと思ってしまうのだった。
ともかく今回も楽しい亀戸でした。