(12月16日・2部)
小ごと / 道灌
小太郎 / 権助提灯
一九 / 寝床
(仲入り)
木久蔵 / やかんなめ
正雀 / 旅の里扶持(ネタ出し)
林家正雀師匠が聴きたくて黒門亭に行ってきました。入りは6割くらい。
この日もなかなか面白いメンバー。
開演前、正雀師匠の弟子の彦星さんが、追加ですと言ってチラシを配っていた。このブログで、妙に検索でお越しの方の多い前座さん。
メクリに「前座」と出ている。前座さんの名前が出ていたり、「開口一番」だったりするのだが、統一したルールはないのだろうか。
人のよさそうな前座さんが登場。一琴師匠の弟子の柳家小ごとさん。一琴師のツイッターにたまに動静が書かれている人。
今年前座になったばかりで、香盤では下に一人しかいない。
携帯電話は音が鳴らないように、と客に注意を呼びかけようとして、セリフが出てこない。笑われるが動じず、「私も粗忽なんでよく八五郎と言われています」と言って道灌に入る。
八五郎というより与太郎っぽい。
噛んで動じないことでもわかるが、なかなか肝の据わった人。結構おかしい。
批判じゃなくてほんのちょっと気になったのだけど、「角が暗えから提灯借りにきた」とサゲを喋りながら頭を下げる。柳家の噺家さんは、客の方を向いてしっかりサゲてから頭を下げるもんだと思うのだけど。
こういうことを書くと噺家さんに嫌がられそうだ。
柳家小太郎「権助提灯」
次が柳家小太郎さん。いつものVサインで登場。
「黒門亭はいいですね、『道灌』では笑わねえぞという空気が」
いや、小ごとさんの道灌も面白かったけどね。確かに、いちいち笑いはしないけど。
地方の落語に行くと、そこでは天狗連がたくさんいて、ファンも付いて、随分もてたりするというマクラ。僕は生まれ変わったら素人落語家になりますと。
小太郎さんは面白いけど、声がやたらでかいし、ちょっと疲れる。
客が疲れるのは、ギャグの全部を、客に対してスマッシュで打ってくるからだと思う。
そんなにいちいち強くいかず、適当にポーンと打っていると、客が自ら拾ってくれる。三遊亭歌之介師などそうだと思う。そうすると受け身でないので疲れない。
でも、若いうちはこれでいいような気がする。たぶん、勝手に芸の方が枯れてきて、ちょうどよくなってくるのだ。
飯炊きの権助はニンに合っている。
小太郎さん、ちゃんと「夜が明けただ」とサゲを言ってから頭を下げていた。柳家はこうだよね?
柳家一九「寝床」
仲入り前も柳家づくし。一九師。久々にお見かけする。
世間話のマクラを振らず、「タレギダ」「どうする連」から「寝床」へ。
寝床は、噺家さんのオリジナルギャグが好きなように入れられる噺。
もちろん、古典落語であっても噺を作る努力は大事なので、クスグリを工夫すること自体が悪いわけではない。だが、寝床の場合、それがとどまるところを知らないくらいエスカレートしているきらいがある。
なにせ、志ん生からして「番頭さんはドイツに行った」というわけわからないストーリーを入れてるくらいだから。タブーのない噺なのだ。
だが、その流れに抗って一九師の寝床、実にシンプル。本寸法だ。あまり好きな言葉ではないがそう思った。
師の寝床は、ギャグを入れるための器ではない。人間の感情の面白さがよくわかる落語。
一般的に聴く寝床には、いつも少々欠点を感じる。「本を素読みにしたってありがたいのに、そこに節までつくんだ」と憤る旦那に、「節があるだけ情けない」などと言葉を返す奉公人がいる。このときの位置関係がどうもわからない。いったい誰がその場にいるんだろう。
これに対する疑問が、一九師の寝床で解消した。旦那はあくまでも、長屋を廻ってきた繁蔵に話しているのであり、陰口を叩く奉公人は、廊下に隠れているのである。
噺のポイントは、奉公人にうまいこと載せられ、徐々に機嫌を直す旦那の変わりようだと思う。
ギャグのための落語では、結構簡単に機嫌を直すのだが、噺のリアリティは薄くなる。
そりゃそうだろう、店子には店立てをくらわし、奉公人は全員クビにすると怒り狂う旦那が、改めて義太夫を語るためのハードルは相当高い。
一九師、丁寧に旦那の気持ちを解きほぐしていく。最終的には満面の笑みをたたえる旦那に快哉すら覚える。
その分、ありがちなクスグリは少ない。旦那の義太夫のひどさを描写するシーンも短い。
いや大変結構でした。
ギャグを入れ過ぎる寝床だと、サゲも既存のものは合わないと思う。一九師のシンプルな噺だと、腑に落ちていい。
寝床を覚えたい若手は一九師に教わるといいんじゃないでしょうかね。基本がしっかりしているから工夫がしやすいのでは。
仲入り後、新たに演者さんの真正面に座った客がいる。50代男性。
この人が、ちゃんと座っていないのでイライラした。いや、足を伸ばすなとまでは言わぬ。だが、背後に手を付いて後ろにもたれかかり、足を大きく演者に向かって投げ出しているとは。
正座して語る演者のまん前で、よくそんな座り方できるよな。
「鑑賞のマナー」なんていう堅苦しいものを持ち出したいわけでなく、落語を聴こうという了見が間違っていると思う。常連には見えなかった。
林家木久蔵「やかんなめ」
最前列でだらしなく座る客が不愉快だが、それはともかく仲入り後は、黒門亭で6月にお見かけして以来半年振りの木久蔵師。
なんだか知らないがとても気になる噺家さんなのである。この人が出ているのも、黒門亭に足を運んだ誘因のひとつ。
気になる部分が、自分でもよくわかっていないところが謎の魅力かもしれない。前回、それほど出来が良かったと思わないが、なんだか長い目で見たくなるのである。
きっと、ベテラン師匠方からもそのように映り、可愛がられるんだろう。
今年の漢字が「北」と決まったことから、体験談を語る。飛行機に乗っている最中、CAがアナウンスで「ただいま北朝鮮のミサイルが発射されたとの情報がありました。皆さまシートベルトをお締め下さい」。
客が一斉にシートベルトを締めた後なにをしたか。みんな窓の外を覗いてミサイルを探していたと。
バカキャラを前面に押し出して喋る、この師匠のマクラは面白い。
黒門亭でもよくウケている。自分がどういう存在で、その自分を活かすためのバカキャラがどうあるべきか、よく身に着いているからだろう。お父さん譲り。
ただ前回思ったのは、なまじマクラが面白い分、本編に入ると語り手のモードが合わず、なんだかなというところがあるということ。バカキャラのままでは落語は語りにくいが、だからといって本編に入ってモードを替えると、せっかくのマクラが死んでしまう。
今日は何を掛けるかなと思っていたら、前回と同じ「やかんなめ」。
春先、梅見の時季の噺なんですがね。ちょっと先取りし過ぎかな。前回は遅れ過ぎだし。
同じ噺かよと少々落胆した。
だが、前回よりずっと面白かったし、その雰囲気も大きく異なっていた。
楽しいマクラを語るバカキャラと本編とが、シームレスになっていた。
これは理屈で解明できる。木久蔵師、人情噺の雰囲気も漂う「やかんなめ」を、もっぱらバカな世界の、バカな登場人物が活躍するバカな噺として語ることに成功しているのである。
下男、可内(べくない)の使い方が上手いのだと思う。おかみさんに癪が出て、命の危険を救いたいと思う奉公人の心情にはもちろん迫らなければならないが、迫りすぎない。
後ろでゲラゲラ笑い転げている可内こそ、木久蔵師にふさわしいし、この下男に世界を支配させれば、なにをやってもスムーズになる。
老武士も、可内に影響されて、バカな本性を出してくる。
そうすると、マクラと本編での語り手の断絶もない。見事な木久蔵落語。
かといって、お侍の武張った部分であるとか、主人を思う人情であるとか、そういったものを切り捨てているわけではない。強調しなくても、こういった要素は、勝手に浮かび上がってくる。
語り手についても同じことで、木久蔵師、バカキャラを捨てずに語り込むのだが、だからといってバカでない部分が損なわれているかというとそういうことはない。
いやあ、これはよかったですよ。
木久蔵師、お父さんと異なり、いずれ落語のほうでも評判になる人だと思う。
林家正雀「旅の里扶持」
トリはネタ出しで林家正雀師。長谷川伸作「旅の里扶持」。股旅もの。
「旅の里扶持」は噺家ものである。先代正蔵には噺家ものが結構あって、「年枝の怪談」などもそう。
主人公は、三代目林家、じゃなくて林屋正蔵である。四代目までは林屋だから。
正蔵がまだ正喬だった頃、師匠をしくじって上州を旅していた。昔の噺家のドサ周りは、「寄席芸人伝」などではおなじみであるが、そんなに広い範囲に行ったわけではないらしい。
江戸弁が通じるところまでしか、行っても仕方なかったと正雀師。だからせいぜい、上州、野州くらいまで。下総、上総あたりが多かったのだと。陸奥の国までは行かなかった。
これも「寄席芸人伝」に出てきた用語だが、「擬宝珠芸人になりたい」というセリフもサラッと入っていた。京橋・日本橋という、橋に付くからぎぼし芸人。
上州でいよいよ食い詰めた正喬、芸人の名前を見つけて半ば強引に、江戸から流れてきた「蝶々家とんぼ」と「江戸家駒吉」夫妻の世話になる。
そこからドラマが生まれ、最後は正蔵を襲名したのち、二十年近く経ってから夫妻の娘と再会する。
不思議な噺。
たまには、日ごろ落語を聴いている脳みそを、別方面から揺すぶりたいと思って、この日の正雀師ネタ出しの黒門亭にやってきた。
私にとっては「ヒザ前の達人」である正雀師。もちろん、その姿が一面に過ぎないことも知ってはいるが、あまり長講を聴く機会はない。
来場の目的は見事に果たされた。
普段聴いている落語は、滑稽噺でも人情噺でも、ストーリーを追って聴くということはあまりない。もちろん、ほとんどの噺のストーリーは先刻知ってしまっているためもある。
長谷川伸の作ったこの噺においては、ストーリーがかなり重要だ。
とはいえ、どんでん返しのあるストーリーではない。伏線の回収もさしてない。
正喬が、せっせと世話を焼いた駒吉に惚れていたことは、むしろラストまで注意深く隠してある。
ストーリーでいったら、有名な落語ネタよりもさらに起伏がないかもしれない。
そんな噺がなぜ楽しいかというと、落語だから。堂々巡りでまったく答えになってないのだが、その落語が楽しい。
また、正雀師の抑制の効いた語り口と演出とが、この大きな起伏のない噺にマッチする。
正雀師の噺を聴く客は、相当主体的に噺に参加する必要がある。自分自身で噺に味付けをしておいしくいただく必要があるのだ。
落語初心者にはハードルが高いが、聴ける人は最初からすんなり聴けてしまうだろう。自分自身、聴ける方に入っていることを喜びたい。
一席終わって正雀師、立ち上がらずに、簡単に噺の解説をしていった。先月国立劇場で掛かっていた「沓掛時次郎」の噺家バージョンがこの「旅の里扶持」なのだと。
そして、足を投げ出して聴く客も含めて、階段前でひとりひとり帰りを見送る正雀師であった。