アニメ「昭和元禄落語心中」に出てくる落語につきいろいろ書いています。
第七話のストーリーは、完全にアニメオリジナル。
原作を、しっかりきちんと膨らましていてびっくりだ。
ダメ亭主「助六」と、口やかましいおかみさん「菊比古」の描き方は、原作のテーマからみじんも逸脱していない。
このふたり、精神的には完全にデキている。そこにイイ女「みよ吉」が絡むので、悲劇が生じるわけだ。
火焔太鼓
助六が高座に上がっている。
甚兵衛さんがカミさんに対して思い出し怒りをぶつけながら、お屋敷に到着したワンシーンだけ。
「火焔太鼓」は、現実の落語界においては、古今亭志ん生の看板噺だったので他の一門はおいそれとできなかった。
志ん生から志ん朝に受け継がれた噺で、志ん朝のお兄さん、先代金原亭馬生すら遠慮してやらなかったという。
今ではみんな競って掛けている。
志ん生がクスグリを練りに練って仕上げた噺で、「クスグリを取ると噺がなくなっちゃう」と言われる。
噺に出てくる「火焔太鼓」は、埃を取ると太鼓がなくなっちゃう。
クスグリが命の噺だが、それなら志ん生作のクスグリを全部外して新たに付け加えようと考えたのが、新作落語の雄、三遊亭白鳥師匠。
この人の古典は実に面白いです。
文違い
菊比古が高座で掛けている。
内藤新宿の遊女お杉が、馴染み客の半公に二十両必要な理由を喋る冒頭部分。
廓噺である。
遊女というものは、基本的には男を騙すキャラである。
尾っぽのついた狐・狸は人を化かすが、遊女は尾っぽなしで人を騙す。だから「尾いらん」。
だが、この噺の遊女お杉は騙しもするが、まずは男に騙される存在。
惚れた男にはなんとかしてやりたいという、遊女の悲しい心情を描いた噺。
滑稽噺ではあるが、決して滑稽ではない。
品川心中
菊比古の高座を、ラジオで師匠と松田さんが聴いている。
「文違い」が続いているのかと思ったら、ラジオのシーンからなにげに噺が変わっている。うっかりしていると聞き逃すところ。
ラジオに乗せられるのだから、「品川心中」、すっかり菊比古の看板になったらしい。
五人廻し
「ううーい(客の声)。五人廻しでございました」
菊比古の高座が終わったシーンだけ。
こちらは、廓のドタバタ日常を描いたコント。あちらこちらの部屋で若い衆が、待ちぼうけをくらわされる客につかまっている。
ドリフ全員集合の公開収録みたいなイメージだ。
とりあえず、菊比古は「廓話」に特化して、レパートリーがどんどん増えていることがうかがえる。
ただ、この噺は廓噺といっても、色っぽい花魁で成立しているものではない。
むしろ滑稽話の雄、助六向きだと思う。
女が来てくれず、暇を持て余す客が部屋の落書きを読んでいる。
「このうちは、牛と狐の泣き別れ。もうこんこん」.。このクスグリ大好き。
らくだ
演ずるシーンは出てこない。
助六が二ツ目の分際で、高座でたっぷり「らくだ」を掛けたというので、師匠連中に小言を食らっている。
後で上がった「五人廻し」の菊比古は時間が足りなくなり、帳尻合わせる羽目になったらしい。
小言を食らってもまったく引かない助六。許してくれる師匠もいる。
しかし、気になるのは助六、誰に「らくだ」を教わって、アゲてもらってるのだろうか。
子ども時代の信さんが師匠に向かって「できる」と大見得切った噺の中に「らくだ」がある(第二話)。そのとき覚えていたのを、アゲてもらわないで掛けているのだとしたら、そのこと自体、落語界では許してもらえないはず。
噺家さんはすぐ、「アンちゃん、その噺誰に教わったんだい」と訊くのである。アゲてもらっていない噺を勝手に掛けることはそうそうできない。
となると助六、遊んでばかりいるようで、実はよその師匠に稽古をつけてもらっているのではないか。
あるいは、見習・前座時代または満州で、自分の師匠「七代目」に稽古をつけてもらい、アゲてもらったのか。
まだ高座に出せない早いうちに大ネタを覚えるという、それ自体は悪いこととはされていない。
鼻つまみの人間「らくだ」は、噺の出だしでいきなり死んでいる。
らくだの兄貴分が、なんとか弔いを出してやろうとして、気の弱い屑屋にいろいろ強いるドタバタ劇。
金を出さない大家に、らくだの死体で「かんかんのう」を踊らせ脅迫するなど、リアルに考えたらついていけない噺。
ひどい人間のひどいエピソードを、カラッと笑わせるのには、確かに腕がいるはず。
紺屋高尾
巡業に連れていくと師匠に言われた菊比古。思い出したようにみよ吉との関係も訊かれた。
師匠に訊かれ、みよ吉と別れることを決意したらしい菊比古、歩きながら「恋わずらい」のマクラを稽古している。
「紺屋高尾」は大ネタである。こうやたかおと読む。
トリ以外でできるような噺でも、二ツ目が掛けるようなネタでもない。真打になったときに備えて稽古しているのだと思ったのだが、第八話の冒頭、巡業先でいきなり掛けている。
先に二ツ目が「高尾」をやってしまったら、七代目師匠はいったいなにを掛ければいいのか。
そもそも、この師匠、大名跡を継いでいるエライ人なのに、なんの噺が得意なのかよくわからない。それはちょっと不可解。
廓噺には珍しい、純愛もの。ほぼ同じ内容で、「幾代餅」という噺もある。
吉原は化かし合いの場、よくいえば男の妄想を受け入れるファンタジーの世界である。
それを前提にしているからこそ、なさそうな純愛ものが受ける余地があるのだろう。