柳家喬太郎Vs.伊藤亜紗 その4

話は編集もあってどんどん変わる。
伊藤先生、落語のバッドエンドに注目する。死神など。
主人公が死んじゃって怖いのだけど、あっさりしていて、さわやかですっきり。これ、なんなんだろう。
昔の、残酷な動物番組のことを思い出すのだと伊藤先生。弱肉強食の世界を描いたそれ。
幼少の先生は、その残酷性に惹かれたわけではなくて、「そうだよね、みんな死んじゃう。これが世の中だ」と示されることが救いになっていたのだそうで。
番組で言っていたわけではないが、「みんな死んでしまいました」というのは、グリム童話など昔話の定番。

このくだり、以前の落語ディーパーの新作特集で、春風亭昇太師の新作(「ストレスの海」や「愛犬チャッピー」)におけるバッドエンドを、一之輔師が激賞していたのとまったく同じである。
落語ディーパー、いつまでも録画を取っておいてはいないが、この新作落語の会だけはいつまでも取ってある。
私のブログに「ぺたりこん祭り」が発生した記念回だということもあり。
ぺたりこん祭りと落語ディーパーについて書いた記事は、ブログ引っ越しのときに持ってこなかったのだが、今回を機に再アップしました。よければご覧ください。

生まれ変われるなら、一度ミジンコになってみたいという喬太郎師。伊藤先生もこれに乗っかる。
喬太郎師が意識しているかどうかはともかく、これ、まさに「火の鳥鳳凰編」であるな。一之輔師もラジオでよく取り上げている壮大な手塚マンガ。
そして、仕草付きでミジンコを表し、どんどんミジンコストーリーを作り上げていく喬太郎師。
生まれ変われても、樹齢の長い「木」は嫌だと喬太郎師。そして大きな木の「根」を演じる。
なんでもないトークから、すでに一席の新作落語の萌芽が生まれている。そしてなによりも、実に楽しそうなキョンキョン。

そして、この番組で二番目にガツンと来たのが次のくだり。
伊藤先生、落語に通うようになって、元気になる感じがあるという。
喬太郎師が受けて、与太郎の話に進む。与太郎、今でいうと発達障害だったりするのかもしれないと。
どこまで行っても、みんなが「与太郎はバカだね」という。
大工調べを例に引いて、落語の世界は与太郎を、「同じだよ、仲間だよ。大丈夫だよ」なんてことさらに言わないのだと。
伊藤先生が受けて、「ダイバーシティ」とか「多様性」とか言う前に、落語の世界はちゃんと与太郎にも持ち場を与えているのだという。
それで場が回っていく、落語の居心地の良さ。

与太郎にシンパシーを覚える私としては、このくだりにとても感動したのであります。
上方落語にはいない与太郎、東京落語の偉大なる発明である。
感度の低い人からすると、与太郎は知的障害者だろう。でも、決してそんな単純な存在じゃないのだ。
与太郎は明らかに常人とは違う。バカだけど、落語の世界ではしっかり居場所はある。
落語の世界の住人は、与太郎に福祉(しかも上からの)の心で接してはいないということだろう。与太郎なりに、得意な分野を活かして世界を構成するのである。
私なんか、与太郎は神に近い存在だと思ってますがね。

与太郎をキーに、伊藤先生は自らの専門分野のひとつ、障害者をテーマに話を進めていく。
障害者は、いつも障害者なんではないのだと。家に返ればお父さん。ある分野については、大学の先生より詳しかったりする。
そして番組は場所を変え、大岡山の東工大キャンパス、つまり伊藤先生の本拠地に向かう。
通常の着物を着て現れる喬太郎師。

伊藤先生が美学について語る。哲学の兄弟であり、「言葉で全部は語れない」学問ですと。
そして、吃音者であった子供の頃、言葉について深く考えざるを得なかった先生にはぴったりの学問なのだと。
世間の認識よりNHKが立派だと思うのは、ちゃんと「どもり」という、きわきわのワードを堂々と使っていること。吃音と書いたのは私であって、番組の配慮ではない。
伊藤先生の著書、「どもる体」が例に取り上げられる。喋るとなると、言葉が体にまとわりつくのだという。
障害者にとっては、健常者の言葉しかないので、自分の経験を語り尽くせないのだと伊藤先生。それは、小説が、言葉で語れない体験を言葉で語ろうとするのと似ているのだという。
これが番組のガツンのうち、一番である。

ここで私は、落語の「心眼」を思い起こす。
人間の「思い」を深掘りしたこの落語、感動的だが、健常者の言葉しか使っていない。
さらに深掘りして、盲人の言葉を使った落語も成り立つのではないだろうかと思う。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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