柳家喬太郎Vs.伊藤亜紗 その5

ちなみに大岡山駅前から広がる、目黒区と大田区にまたがる広大な東工大キャンパス、近隣では有名なスポットである。
今年はNGだったはずだが、桜の名所でもある。この番組でも、遊ぶ子供たちが背景に映っている。
その大岡山キャンパスを歩く二人。障害者の生きている世界と、使う言葉を探りながら。

再び室内で。「見えていると捨てちゃう情報がたくさんある」と伊藤先生。
そして、視覚障害者にもいろいろ。聴覚や触覚をメインに使う人もいれば、自分の感覚ではなく他人に訊いてしまう人もいる。
聴覚の発達した視覚障害者の場合、「柵」の前後で、音の聴こえ方が変わるのだという。柵があると、音がカットされて聴こえてくるので。

ダイアログ・イン・ザ・ダークというワークショップ体験の話。
視覚を一切カットして味わうこのプログラムに、かつて喬太郎師も体験したのだそうだ。
胎内のようで意外と落ち着いたという喬太郎師。
いっぽう、視覚を奪われると、人間関係が変わるという伊藤先生。体を寄せ合って協力し終わった後で明るい空間に出ると、とても気まずかったのだと。

徐々に、話題が落語から離れていく。知的好奇心を揺さぶられて非常に楽しいのだけど。
しかし落語のブログなので、最後に私も、番組からヒントを得たひとりワークショップをして終わりにしよう。

ラクゴ・イン・ザ・ダークはどうだろう。
寄席でもって、真っ暗にして目隠しもして、しかし高座の噺家にじっと耳を傾けるなんてのは。
落語ファンは日ごろから、音声だけで落語を聴くことは経験している。想像力を働かせて噺についていくことは、決して難しいものではない。
だが、使えるはずの視覚を一切カットしてみると、世界がちょっと変わるかもしれない。

わかりやすいところでいうと、「ネタ帳ドレミファドン」と私は呼んでいるのだが、マクラであたりを付けて、本編の演題を予測メモ書きするファンは、存在自体を抹消されてしまうわけだ。
これはちょっと愉快だ。なにしろ演者に嫌われる行為の筆頭である。
メモも取れないから、内容を覚えていないとブログにも書けない。一切メモを取らない私は困らないけど。
そしてイケメンや美女の噺家は、高座におけるアドバンテージがなくなる。替わって、声のいい噺家が抜き出ることになる。
客も声だけで、あ、この噺家初めて聴くけど、太ってるんだねなんて想像するわけだ。

そしてCDの落語と完全に違うのは、演者の側もまた、視覚をカットされてしまうということ。
まず、着物に凝る必要は一切なくなる。パンツ一丁だっていい。
座布団を使う必要もない。立ち高座でも、椅子でもいい。
そして落語の所作は無意味になる。カミシモという落語のスキルは無意味となるし、扇子と手拭いを使った見立てもいらない。
だが、上方落語の見台はむしろ重要性が増す。
はめものも然り。

演目もだいぶ変わるだろう。蒟蒻問答はできない。
日頃客席に気を遣って出せない噺の筆頭である、按摩の噺が、打って変わってフィーチャーされるかもしれない。
「麻のれん」や「言訳座頭」なんて、健常者の世界からではなく、按摩自身の世界から描いてみせることになったりしてね。
こうやって、視覚障害者のための落語が生まれたりなんかして。
これは昨日取り上げた箇所だが、視覚障害者のための言語が用意されていない現状を、変えてみせるかもしれないじゃないか。

現在障害者福祉としておこなわれているのは、たとえば聴覚障害者のための「手話通訳落語」である。
これ、本当に楽しんでいる人がいるのだろうかといつも思っている。落語の素人である手話通訳者が同時通訳して、果たして面白いだろうか?
障害者に不完全なものを見せて、このぐらいでいいだろうと自己満足している「上から福祉」なのではないかといつも思うのだ。

それもあってなのか、現役では桂福團治師、故人では古今亭圓菊など、手話落語にチャレンジしていた。ちゃんとしたものを見てもらおうとすると、そうするしかなかった。
新たな聴覚障害者のための落語フォームを生み出す必要があったのではないか。
同様に、視覚障害者に対しても、新たな可能性がここにあるのではなかろうか。

聴覚障害者の落語となると、健常者も聴ける。だが、誰を中心に据えるかにより、中身はちょっと変わってくるかもしれない。
登場人物の容姿や服装を描写しても、意味はないのかも。
その代わり、そのシーンにおける「音」「匂い」などを描写したほうがいいのだ。

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作成者: でっち定吉

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