八代目桂文楽「心眼」(中)

冒頭、「お笑いを申し上げます」と文楽が語っているのが、やや違和感。
現代では、人情噺を語る際の前フリではない。
だが、「この、心眼と申すお笑いは」と言って先の圓丸の説明に入るところを見ていると、文楽にとって心眼もまた、お笑いなのだろう。
積極的に笑うシーンなんてそれほどない。
それでも人情噺が成り立つ前提自体を疑ってみれば、お笑いだという気も、少ししてくる。

文楽は、名人圓朝の作ったこの噺について、「私はお取次ぎをするだけでございます」。
もちろん、そんなはずはないのだけど。
現代に続くサゲの形は、文楽が作りあげたはずなのだ。

心眼とは、つまり文楽によればこんな噺なのだろう、きっと。
「懸命に生きてきた盲人が、ある日目の見えないことに絶望し、信心で目を開けたが現実の悪夢を見る。だがすべては夢であった」。
文楽にとってどうという前に、あらすじ(ネタバレ)なんですが。
夢であることは、おかしみにつながるわけだ。この点、お笑いだと言っていえないことはない。私にはとてもそうは思えないけども。
当時の客も、按摩の梅喜の女房、お竹がひどいご面相だというので、一緒になって笑っているではないか。
人三化七を通り越し、人無化十なんだと。
このフレーズ、久々に聴いた。お竹は人間より化け物の籍のほうが多いんだそうだ。
現代人のために読み仮名を振ると、「じんさんばけしち、にんなしばけじゅう」である。意味まではいちいち書かない。
現代人は、こんなところでは笑えない。むしろ引く。
おかしみ自体を味わうことができないわけではないとしても。

20分の高座であり、現代感覚からすると場面展開が早い点、ちょっと戸惑う。
どうして現代の落語は遅くなったのだろうか。遅いことが悪いわけじゃないけども。
とにかく、実の弟にひどいことを言われた按摩の梅喜が落ち込んで帰宅する点、そして願掛けの結果、目が開くまでの展開がすべてスピーディ。

さて、幼少の頃以来久々に目の開いた梅喜、このような特異な経験をする人にとって、世界はいったいどう見えるのか。
この点、心眼という噺には多くの考察が見られる。
圓朝が、弟子の圓丸からそれだけしっかり世界の見方を聞き取り、想像を膨らませた結果なのだろう。

薬師様で、三七21日の願掛けをしたのに、目が開かない梅喜。
悪態をついていると、上総屋の旦那に声を掛けられる。
梅喜はいつの間にか目が開いているのだが、旦那に指摘されて、初めて気づくのである。
そして面白いことに、梅喜は声を掛けたのが誰だかわからない。
この瞬間に、めくらの梅喜は目開きの世界に飛び込んだのだ。目が開いた瞬間、ひとりで帰れなくなる梅喜。

自分が子供の頃には走っていなかった人力に驚く梅喜。
目が開いたのに、習慣で杖をついて歩いたり。
このあたり、妙なリアリティがある。
めくらの梅喜のままなら、人力車に驚いたりはしないのだから。
そして上総屋の旦那に、女房お竹がどれだけ姿の悪い女なのか教わり、がっかりする梅喜。

この部分が冷静に振り返ると不自然なのだ。不自然さと裏腹なリアルも濃厚。
目が開いたとたんに、梅喜は健常者の審美眼を手に入れ、それまでのものの見方を捨てるのである。
でも、目が見えないからといって、丸っきり独自の審美眼で生きてきたわけではないはずなのだ。
自分の女房が噂になっているレベルのまずい女であること、それと裏腹に自分がどれだけいい男なのかということ、梅喜が盲目だからといって知らないのはおかしい。
このあたりが、後から振り返ればいかにも夢である。だが、落語の中では違和感を抱えたままストーリーは進む。

旦那がいきなり消えてしまい、うろたえる梅喜。
これは、夢オチの伏線、ヒントなのだろう。この噺の不整合な点を最初から飲み込んでいる。
客に対して、あらかじめ不自然さを与えておくのだ。
そして目の開いた梅喜、ここから急にゲスの極みを見せるのである。

続きます。

 
 

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作成者: でっち定吉

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