桂米輝 その2

米輝さん、「桂<ヨ>ネキです」と冒頭高で自己紹介している。
だが、ラジオで平板に読まれていた覚えがあるようなないような。平板な「ヨネキ」さんでも、別に構わない気もする。
関西だと、「ヨ<ネ>キちゃーん」と、「ネ」にアクセントを付けて呼ぶ人もいそう。
まあ、迷ったらご本人の読み方に従いましょう。

飛躍した設定で繰り広げられる米輝さんの新作の数々だが、もっぱら古典落語で使う方法論から逸脱していない。それもスゴイ。
逸脱する新作落語というものもあるのだ。失敗した新作という意味ではない。
東京では、林家きく麿師や、披露目が延びて気の毒な瀧川鯉八師などがそういう、型を逸脱する落語。
古くは現在の新作落語のパイオニアである、三遊亭円丈師。
この人たちは、しばしば別の落語の体系を作り上げることから始める。
別の体系を作り上げるのはすごいことなのだが、既存の落語体系の中で納まるなら、そのほうが話が早い。

米輝さんの新作、二人の登場人物がただただ会話をし続けるというものが結構多い。
会話の中から、シュールな現実が解き明かされていくので、大事な要素である飛躍には事欠かないのであるが、その前に、会話をし続けるだけという構成に着目したい。
これはなにかというと、古典落語の「道灌」「子ほめ」「長短」「千早ふる」「替り目」などと同じ体系の上に載っているのである。
上方落語で言うと、「喜六と清八」「喜六と甚兵衛さん」。東京だと、「八っつぁんと隠居(先生・アニイ)」である。夫婦間の噺も無数にある。

まずこれらの、落語を、きちんと語れる高いスキルが米輝さんにはある。
古典落語としては、長井好弘氏が取り上げていた「千早ふる」だけ聴いた。長井さんはたぶん古典落語として聴いたのだろうけど、私が聴いたのは改作落語「チハヤブル」の前半である。
だが、これを聴かなくても、すでに古典落語の大変な上手さは新作からびんびん感じる。
登場人物の会話から、古典落語のベースがしっかり聴こえてくる。
現在の新作落語家で上手い人は、だいたいそうだ。古典落語のスキルが「役に立つ」なんてレベルではなくて、落語の上手さというものは古典と新作で大きく異なるわけではないということ。

まず、落語として圧倒的なレベルにすでに到達している米輝さん。
だから、というか、にもかかわらずというか、米輝さんの新作落語は、同時にお笑いとしても著しくレベルが高い。
私は毎年M-1についてもなにかしら勝手に語っているように、お笑いも大好きである。
だが、落語に対して即物的な笑いを求めているわけではない。落語とお笑いで、見る角度はかなり違う。
なのに米輝さんの新作、お笑いの感性を使ってアプローチしても、著しく面白い。
落語という非常に便利な型を、自由自在に使いこなしているからこそであろう。
お笑い芸人たちは、頑張ってとても面白い笑いの種を思いつく。
しかし、残念ながら客との接点が見つからず、客に伝わらないことがある。特にシュールなネタほど。
一定の型を作り上げ、そこに客を乗せることができているのが、今をときめくミルクボーイやぺこぱ。
毎回、違った型をこしらえるという、高度な芸に挑んでいるのが、かまいたちやジャルジャルか。

芸人たちの努力には頭が下がるものの、落語の場合、お笑いとして捉えたときに実はかなり有利な地位にある。
すでに型ができているので、シュールな題材の噺であっても、客との接点に最短ルートで到達できるのである。
もちろん、落語の型がまったくわからないお笑い好きであれば、多少の学習は必要かもしれない。でも、聴いてればだんだんわかるんじゃないかと思う。

米輝さんの噺そのものに触れずに、抽象論ばかり延々語っていてすみません。
次からちゃんと触れていきます。
とにかく私は落語ファンに対し、この人のすばらしさを語りたくて仕方ない。
そして、落語も嫌いじゃないけど、お笑いほどには笑えないななんて素直な感想を持つ世間の人に対しても。
古典落語しか聴かない人に語る努力まではしない。だが、新作落語好きに取っては、今日から早速格別の地位を占める噺家のはずだ。
丁稚定吉さんがそこまで褒めるなら、一度聴いてみようという人も、少しはいるのではないでしょうか。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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