桂米輝 その3(ちくわ)

米輝さん、声もいい。そして、声の高低を使い分ける人だ。
この手法、登場人物の描き分けをしようとして使うなら、決してよくはない。
男を低く、女を高くして、客が混乱しないようにする、そんな手法は三代目金馬で終わっている。
だがギャグの一環として使うなら、全然アリだ。柳家喬太郎師も、しばしばこういう手法を用いている。
特に新作落語には、悪くない。
米輝さんのこのいい声、誰に似ているか。噺家ではなく、神田伯山先生によく似ている。特に低い声を出してきたとき。
伯山先生、まあ人間性はともかく、講談が上手いことに異論はない。
その声に米輝さん、よく似ている。客を語りに没入させる、立派な武器。

2日間すでに抽象的な話ばかりしているので、いい加減、米輝さんの具体的な噺について触れていきましょうか。
まずのけぞったのが「ちくわ」。
米輝さん、一連の配信で小出しに語っているところによると、なんでも新作落語は、タイトルから先に考えるらしい。
なるほど、ちくわというタイトルをセルフネタ出ししておく。そして皆が知ってる食材と、新婚旅行を組み合わせれば落語になるわけだ。
これは、三題噺の技法に近い。
三題噺の場合は、まったく関係ない3つのお題にブリッジが掛かることにより、新たな世界が生まれる。
「みかん」「電気」「水たまり」だと「母恋くらげ」になり、「ハワイ」「八百長」「雪」だと「ハワイの雪」になる。どちらも喬太郎師の新作。
米輝さんの場合、ひとつのお題から、全然関係ない分野にブリッジを掛ける才能があるのだろう。

新婚旅行でパリにやってきたのに、旦那の荷物の中身はすべて「ちくわ」。一体どういうことなのよと迫る妻。
徐々に明かされる、新婚夫妻とちくわの関係。
実は妻もちくわが大好物。
ふたりの会話だけでできた噺が、思わぬ世界の変容による快を聴き手にもたらす。
旦那はボケであるが、嫁さんはただのボケでなく、ツッコミボケである。旦那にはツッコミを入れるが、世間から見ると、十分にボケている。
ぜひ、ちゃんとしたツッコミ役として客も参加してみよう。

衝撃の噺なのだが、こういう設定の落語自体、今までないわけではない。むしろ、しばしば聴いている気すらする。
東京でも、春風亭百栄師や三遊亭丈二師など、とんがった噺の得意な人が出しそうな落語である。
つまり、これが新作落語に欠かせない「飛躍」のひとつのあり方だ。噺の世界が、現実と異なる秩序で動いている。
客がそれを理解すると、現実とのズレが生じ、笑いとなる。
新作落語においては、現実とズレた社会を常に追求しているのだ。

だが米輝さんに、先達たちを追いかける二番煎じ感は皆無だ。なぜか。
それは、古典落語の方法論でこの世界を語り切っているからだと思うのだ。この手法はなかったな。
声がいいし、会話のリズムがいい。これはまさに古典落語だ。
登場人物はズレた人たちなのに、語りのリズムにより、喜怒哀楽がだんだん聴き手と一致してくる。見事な呼吸。
客は、自分の内面に生じたズレを楽しむ。

最近、春風亭一之輔師について、古典落語を新作の技法で語る人だという結論に達したところである。
米輝さんは逆だ。ぶっ飛んだ新作を、古典落語の技法で堂々と語っている。
この気持ちよさは、もしかして初体験かもしれない。

もちろん、お笑いともまた違うもの。十分お笑いとして成り立っている落語だけども、一般のお笑いジャンルと比べて。
「ちくわ」も、漫才(漫才コント)になり得るネタであるが、どう着地していいか。
既存の漫才は自由であるがゆえ、かえって着地点がないのだ。
米輝さんの新作は、古典落語の型を使っているので、聴き手の気持ちに沿ってすんなり着地する。

シュールなネタの中に、「ちくわあるある」を入れ込んで来るのも見事。
ちくわの穴に、何を詰めたらいいかという話。こういったフックによって、聴き手と噺との遊離を防ぐのだ。

サゲに注力しない姿勢も好き。この「ちくわ」もそうだ。
非常に適当な、新作っぽいサゲで軽やかに終わる。
サゲはもともと適当なものだと日頃は認識している。だが米輝さんのサゲの、力の入らなさは、世界の飛躍をマイルドに着地するための要素でもあるな。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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