私は新作落語をこよなく愛するものである。そして日々、新作落語と古典落語とが、決して別ものでないことを語っている。
当然のように、古典落語と新作の二刀流の噺家も、普通に存在している。
だが米輝さんのスタイルを念頭に置くなら、東西どんな新作落語家も、狙って古典落語から離れていっている気すらしてくる。新作派は実のところ、古典落語が大好きでならない人ばかりだというのに。
米輝さんの、新作落語を古典で語るこの手法がなぜ珍しいか。理由は簡単で、そんな語り方は誰もできないからだ。
新作にチャレンジしているのに、古典口調だけが残ってしまう残念なベテラン噺家とももちろん違う。若手でもそんな残念な人、たまにいますか。
この技法のすごさ、私にとって解明の糸口すら見つかるかどうか?
自信がないのだが、ひとつだけわかったのは、米輝さんの強靭な足腰と肚のありよう。
そして、登場人物にリアルに迫っていくにもかかわらず、どこかに遊びの部分を設ける。米輝さんの楽しい登場人物たちは、しっかり二本の足で立っているようで、実は宙に浮いている。
しっかりしているのに軽い。
言ってみたら、古典落語の軽さだけ引き継いで現代に現れたキャラクターたち。
たびたび名前を出している喬太郎師も、古典と新作ではキャラ造型が違う。古典の場合は記号なのに、新作になると途端に、その人の人生が見えてくる。
新作落語のキャラクターが、物語に描かれない外伝を多数持っていることがうかがえるのだ。
だが米輝さんの新作の登場人物は、極めて古典っぽい。いきなり物語に現れて、サゲと一緒に消えていく人たちばかり。
さて、また抽象的領域に入りこんでしまった。それだけ、語りたくなる魅力に溢れているのである。
米輝さんの楽しい新作落語を続けて取り上げる。今度は「ねっとり」。
ねっとりした食べ物、飲み物、それ以外のものが好物の二人の根問もの。
変態落語であり、しかしながら、多くの新作落語以上に古典落語の要素の強い落語でもある。
まあ、フェティシズムの噺だろうかな。柳家喬太郎師の復刻落語「擬宝珠」みたいな。
男が、たぶん自分より年配の男の自宅を訪ねるという設定で、これは完全に古典の枠組み。
ふたりはこの日も、ねっとりしたものへの執着を語り合う。
片栗粉を入れた茶でもてなす年配の男が飲んでいるのは、烏骨鶏の卵を入れたお茶。
もっぱら食べ物のねっとりした話題が多いが、若いほうは手土産に、「ねっとりした」CD、つまり桑田佳祐や河村隆一を持ってくる。
若いほうが、年配のねっとりさに敬服し、ひとつひとつ「ねっとり」と評価する。
世界のあらゆるものをねっとりと変容させていく、楽しい会話でできた落語。
初演だということだが、見事な一席。
登場人物はまたしても二人だが、揃ってドスの利いた声を出す。声の使い分けが、キャラ分けのためでないことがよくわかる。
落語のルールからは逸脱しない。
登場人物ふたりとも声が低いが、一か所米輝さんの地の高い声を効果的に使う。
そして、ふたりの使う言葉は、もっともねっとりした関西弁。
この言葉は、関西の若い人には、学習しないと使いこなせないはず。恐らく、笑福亭松鶴など、古典落語自体から学んだものと思われる。
最もディープな関西弁から、ひとつも関西弁が混じらない標準語落語まで、すべてスムーズに語り切るのもすごい。
上方落語の場合、言葉へのこだわりが強いがゆえに、関西弁を使わない落語をするというのは勇気が相当いるんじゃないかと思うのだが、軽々とその縛りを超えていく米輝さん。
もっとも、この「ねっとり」のようにちゃんと落語の上方言葉を使いこなしている彼に、注意する人などいまい。